ねこぜの現代思想入門「鷲田清一」(3)~自分の身体は自分の所有物か~
◆おはようございます。教員のねこぜです。夏休み後半ということに焦りを感じています。よろしくお願いいたします。今回は鷲田清一著『生の交換、死の交換』を読んだのでその記録です。大阪大学の論文としてネットに公開されています。書籍『悲鳴をあげる身体』にも収録されています。身体論の1つです。
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/4805/1103washida1.pdf
1.所有するということ
所有物が多いことがその人の豊かさを表す指標、ステータスのように感じる現代社会。お金や車をたくさん持っているのがお金持ち。友達がたくさんいる人は人気者。妬みに聞こえるだけかもしれないが、モノとヒトに溢れたこの時代に、お金がたくさんある、友達がたくさんいる豊かさがそのまま幸福と言い換えられるわけではないことに、「豊かさ=幸せ」ではないことに薄っすら気付いた。所有することには「占有」と「包含」とに区別されると鷲田先生は言う。そして所有はしばしば反転する。お金を所有しようとすると、守銭奴としてお金への欲望に縛られる。好きな人ができると、わがものにしようと必死になり、その人の振る舞いや表情の逐一が気になり、嫉妬すら生まれる。ガブリエル・マルセルの言うように「所有することは、ほとんど必然的に所有されることだ」。
専制君主的な絶対なものから、家も国ももたない流浪人とか、あるいは生涯独身を貫くような、あるいはミニマリストようなもの。本来、自由に、意のままにできるという意味での所有(権)が、自分を不自由にしてしまう逆説が生まれるというのである。
2.自分の身体は誰のものか
さて、鷲田先生の論考は身体論である。確認をしておくと、近代西欧から生まれた所有権は、「各人が身を削って生み出したもの、つまり生産物は、それを生産した者に本来帰属するものであって、他人がそれを本人の意思を無視して自由に処分できるものではない」。つまり、「これはわたしのものである」ことが規定できるなら、「わたしはそれを意のままにしてよい」という考え方になるのだと言う。
伸びた爪を切ったり、床屋に行ったりすることは当たり前のこととして日常に溶け込んでいる。近年は整形にも寛容になってきた気がする。僕なんかは、形成した人を見ると「この人の本当の顔はこれじゃない」感をどうしても覚えてしまう。自殺はもってのほかで、自ら命を絶つなんてあってはならないと思う。その人の身体がその人のものであるならば、「その人がどうしようと自由」であるはずが、加工して当たり前のものから、それはちょっとおかしいよねというものまで、どういうわけかグラデーションがある。思うに、その行為一つ一つがその人と自分との関係においてどうなのかが重要なのだろう。
養老先生は「死は二人称である」と指摘している。コロナで知らない人が死んでも、赤の他人が自殺しても、痛ましいとか残念だとは思うけれどもあくまでも三人称である。自分にとっての死は「あなた」が死んだときに訪れる、感じることになる。芸能人の整形はまぁどうでもいいけど、妻が整形しようかなと言い出したら「ちょっと待って」と言いたくなるかもしれない。
昔、ピアスを開けようとしたら親から「私が必死に産んだ身体なのに」「五体満足に産まれた身体に傷をつけるなんて」と言われたことがある。その時に、自分の身体は自分のものであると同時に親のものでもあるのかと感じたものだが、若さゆえに「自分の勝手やろ。好きにさせろ」と結局穴を開けてしまった。
では、親が死んだらどうなるのか。今度こそ自分の身体は自分だけのものになるのか。いや、家族、子どもがいた。「家族のためにも、身体を壊さないように働いてね」と、ここでも「あなたの身体はあなただけのものではないのよ」が発動している。家族に限らず、チームや会社、コミュニティの数だけあるのかもしれない。それが、社会的に生きるということなんだろう。
では、死者はどう扱われるべきなのか、人工授精など母体の外で生まれた子はどうなのか、といった現代的な医学的な倫理問題についても鷲田先生は触れている。
◆最後までお読みいただきありがとうございます。所有すること、自分の身体は誰のものか、についてアウトプットしてみました。教育現場にいるものとして、どうしても子どもは誰のものか、とか、教員とはどう「ある」べきなのかなどに思考がいってしまいます。もっと根源的な自分の身体、存在すること、「だれ」にとっての自分、そうしたことへ視野を広げられたことは勉強になりました。これからも、鷲田先生の著書は読んで、アウトプットしていくつもりです。
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