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1話 東日本大震災に駆け付けたヘリパイロットの隔靴掻痒記 3.11とその前後

3.11その日の発災情報の入手は無線の傍受だった

 55歳で陸上自衛隊を停年退官してすぐ島根の防災航空隊で飛ぶことになった。
 その6年後のことだった。島根県には当時ドクターヘリはなく、いまではドクターヘリが行っている任務も防災ヘリコプターが担任していた。所属操縦士は3名であり、昼間は一人で夜間はダブルパイロットで運航していた。24時間365日を基本的にこの態勢で維持するのは、かなり、いやとても、自衛隊時代より厳しくはあった。
 夜間体制を維持するために操縦士2名、整備士1名、運航管理者1名が、自宅または母基地の出雲空港近傍に所在しなければならなかった。そして防災航空隊に勤務する消防隊員は2名が、これも自衛隊時代には知らなかった労働基準法のグレーゾーンのなかで、職場に寝泊まりしていた。
 だから3日のうち2日は、天候の推移を気にしつつ、呼び出しの連絡を逃すことのないように、入浴中など携帯電話を料理に使う金属ボールに入れ、浴室のドア外に置いていたほどに、緊張感をもっての生活を強いられていた。既にロートルだったが使命感が、そんな私の単身赴任生活を支えていた。

 その日は昼食の前に出雲空港を離陸して急患任務をこなし戻ったところ、再び別の要請が入ってきた。今度は赤十字病院の医師ピックアップのため、医師搬送車と最寄りの臨時ヘリポートでランデブーして、医師を収容し隠岐の島の空港に向かい着陸した。
 懐かしい陸上自衛隊のLR-2とUH-60Jがエプロンにあった。このような離島で出会えることは奇遇であり嬉しかった。そのLR-2が計器飛行で木更津へ帰投するための管制承認を要求していた。私たちのヘリコプター離陸の直前のことだったから、15時丁度くらいの交信だった。発災から15分ほどの時刻だった。
 LR機はスタンバイがかけられ、間をおいて次の会話に少し驚く。
「関東で大きな地震があったようです。管制承認はいつになるか不明です」
と云うのだ。
 世界中から日本を目指す多くの飛行機の行先がなくなった。管制側は降りられる空港を確認しつつ、これらの便の行先を再配当する。受け入れ側の空港も大型機を収容できる機数は限られている。燃料ぎりぎりで全機を安全に着陸させたのは、これまた素晴らしいことなのだが、これはまた別の物語だ。

 ともかくも私たちは陸自機より先に、出雲空港に向け離陸できることになった。当時は中波の電波を利用した無線航空標識がまだ残っていた。だからその電波の受信装置も搭載されていた。それをラジオ放送局の周波数にあわせ、臨時ニュースから状況入手に務める。どんと胃袋を締め付けられるような緊張感が機内に漂っている。

現地派遣を予期したその日の行動

 同乗の医師と隠岐からの患者を最寄りの臨時ヘリポートに降ろし救急車に引継ぎ出雲空港に取って返す。事務所のテレビに愕然としつつ次の行動だ。
 島根県防災航空隊は現地派遣を予期し、以下の行動基準がしめされた。
①担当パイロット2名は帰宅し休養仮眠。
②整備は防災機の中間点検を前倒しで実施。夜間整備で夜明け前までに完了させる。
③隊は活動に必要な資機材の準備と、整備の進捗に合わせ機内搭載すること。
③早朝準備出来次第被災地に向け離陸を予期し、帰宅者は集合すること。

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 当時使用していた防災ヘリコプターは飛行50時間毎に、定められた箇所を整備して、次の飛行50時間を保証する予防整備方式がとられていた。その定められた時間まで余裕はあったのだが、現地で十分働けるよう早期に整備して、次の整備までの飛行時間の余裕をもって、現地に入ろうとしたのだった。

 私は翌日からの派遣メンバーに入っている。整備作業が開始された。(機体の整備と、出発の準備を)よろしくお願いいたしますと声をかけ、帰宅。明日からの所持品をまとめながら、そうだ昼食まだだったと、自炊の夕食をとりベッドに入る。

                       つづく

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https://note.com/saintex/n/n848c8bb9ab3c

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