見出し画像

ムスコ物語/ヤマザキマリを読んで

最近、子育てに悩んでいた。

2歳になった娘は自我が芽生えてきて、やりたいこと、やりたくないことをはっきりと主張するようになってきた。
それをどこまで汲んだらいいのか、自分のやって欲しい方向に娘を誘導するのはエゴなのか、もっと自由にのびのびやらせた方がいいのでは…

そんなことを色々と考えていた矢先に、3歳児入園する幼稚園を選ばないといけないタイミングがやってきた。

姉に相談すると、姉は第一子の時はその子に合っていると思った教育系の幼稚園に入れたという。
それを聞いて、私は自分の娘が何系の幼稚園(教育系とか、のびのび放流系とか、運動系とか)が合っているのかが全く分からない事に衝撃を受けた。
母にそれを伝えたら、「1人目の時はそんなもんだよ」と言われたが、
自分は娘のことを全く理解出来てないのではないか?と不安になった。


それと同時に、自分の将来像が全く思い浮かべない事にも悩んでいた。
将来成し遂げたい目標もなく、歯医者をこの先続けるのか、続けるならいつ働き始めるのか、自分は何をしたいのか?開業したいのか?何のために?
路頭に迷っていた。



そんな時にたまたまこの本を読んで、
自分は母親としてあるべき姿に固執し過ぎていて、自分の人生を生きる事を忘れていた事に気付かされた。
娘の人生は私の人生ではないし、私の人生も娘の人生ではない。
娘が大人になるまではサポートはするが、自分の価値観を押し付けてはいけない。彼女にとって何が幸せなのか、何をやりたいのか、どんな人生を歩みたいのかは彼女が決めたらいい。

私は、「自分はこうだったから娘にはこうして欲しい」という一見愛情風のエゴを娘に押し付け、
「自分の母はこうしてくれたから」という考えに囚われ、誰に望まれた訳でもない母親像を自分の中で作り出して、一旦自分の人生を諦めかけていた。

本来の自分は、
1人で旅行に行くのが好き。
1人の時間が好き。
本を読んだり映画を見たり芸術に触れたりインプットの時間が至福の時。
身体を動かすのが好き。ランニング、ヨガ、プール、キックボクシング、産後やりたい事がたくさんある。
家にずーっといたりするのは性に合ってない。
歴史が好きで、定期的にテーマを決めてそれに関する本を読み漁って、その地に行くのが好き。
カフェでのんびりする時間が必要。

そしてそのどれもが、子育て中は難しい事ばかりだった。

20歳の時に行ったインドのジャイプールで


ベルニーニのバルダッキーノが
どうしても生で見たくて、
大学に合格してすぐ
18歳の時に1人でイタリア、フランスを旅した
ここから旅好きが始まった笑


インドの帰りに寄った万里の長城
インドは真夏だったので、
クロックスで雪の中つるつる滑りながら登った笑


この土日でS先生のセミナーに行っていたが、
その中で「思いや夢がありながら、それを”実現できない可能性”に目を向けていることが多い」という話を聞いた。
日本の陸上でずっと10秒を切れなかったのが、
桐生選手が9秒台を叩き出して以来どんどん日本人選手が9秒台を出し始めたのは有名な話だが、
(レベルは違うが)自分も当てはまっているなと思った。

子育て中は1人の時間を捻出するのは難しい、海外旅行も行けない、開業するのも子供に手がかからなくなってから…と勝手に色んなことを制限していたが、
私が今後どう働こうが、一人旅に行こうが、いつ開業しようが、どういう生き方をしようが、
それは全くの自由で、誰に決められる事でもなくて、自分がやりたいように生きていいんだなと気付いた。
こうやって書いていると当たり前の事のようだが、この考えに至るまでに数年かかった笑

「子育て中だったから開業できなかった」
「子育て中だったから一人旅に行けなかった」
何かのせいにするのは簡単だが、その怒りや後悔の矛先がいつか娘に向かうとしたら、そんなに怖いことは無いなと今は思う。

だからと言って育児放棄する訳でもないし、
一人旅するのも開業するのもこれから出産を控える私には当分後の話になりそうだが、
「自分は自由でいていい」「自分の人生は自分で決める」というマインドは精神的な自由を与えてくれるんだなと気付いた。



↓ヤマザキマリ「ムスコ物語」より


「少なくとも私は、デルスを産んだ時点から、この子の存在は私の生きる理由ではないと自覚し続けてきた。そのうち自分にとって生きやすい道を見つけたら、私など気にせずどんどんそっちの方に行ってほしいと、ずっとそう思いながら育ててきた。」

「家族の在り方に限らず、世の中は人間の社会も自然も全て、何一つとして、思い込まされてきた通りにはならないようにできている。
そんな事はわかっているのに、人間というのはついこれはこうあるべきという信念を無理矢理にでも押し通そうとして、その通りにならなければ失意や絶望といった感覚に陥る生き物だ。戦争も喧嘩も全てはそこが根幹になっている。


「父親や母親というのは子供が生まれた時点で自動的に課される役職であり、彼らは父親や母親である以前に、まずはひとりの人間であるということを子供はどこかで認識するべきなのだ。
親という役割をこなしつつも、その役回りが彼らの全てではない、ということをどこかで悟って育った子供は、後々気が楽になるようにも思う。」

「自分が入念に思い描いた子育てという筋書きを何が何でも達成したがる母親は、予期せぬ人生の顛末の可能性を推し量ろうとしない。
私が思うに、子育てに欠かしてはならないのは、たとえ子供に対してどんな理想が芽生えようとも、あらゆることが起こり得るという覚悟を備え持つことと、母親という立場から一旦離れて、自分の力で自らを満たす術を持たねばならないことではないだろうか。
親の決めた方向に進まなくても良いことになった子供は、それまで気がつくこともなかった思いがけない自分の才能を自由に開花させることも出来るようになるし、何より親を満足させるために生きなければならないという大きな負荷からの解放は、そのまま人生の謳歌へと繋がっていくだろう。」

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?