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ナショナルギャラリー
DCで訪れた次の美術館は、ナショナルギャラリー。美術ファンは、ナショナルギャラリーといえば、すぐにロンドンのナショナルギャラリーを想起するかもしれない。何を隠そう、ワシントンDCのナショナルギャラリーもなかなかのもの(らしい)。歴史こそ浅いアメリカなだけに、開館も世界の名だたる美術館のなかでは比較的新しい。それでも13世紀からの近代までの美術品の収集力にかけては、歴史ある欧州の美術館に肩を並べるほど。開館年は
イタリア ウフィツィ美術館 1743年
フランス ルーブル美術館 1793年
スペイン プラド美術館 1819年
英国 ロンドン ナショナルギャラリー 1824年
米国 ワシントンDC ナショナルギャラリー 1941年
ワシントンDCに来ると必ず訪れたいナショナルギャラリー。しかも有難いことに無料。そもそもナショナルギャラリーを含めスミソニアンの美術館、博物館はすべて入館は無料。ちなみに上記の美術館のなかで入館料無料を誇るのは英国と米国のナショナルギャラリーだけ。一般に、美術館の運営費は、絵画の展示、保管(展示されているのはごく一部)、修復、電気・光熱費(冷暖房だけではなく、絵画の状態を保持するためには気温調整も必要)、人件費、会場の設置や工事費などなど。入場料無料の背景には、国の支援(英国NGは運営費の3割は国の助成、残りは寄付による)や高額寄付がある。普通であれば、世界中から観光客が集まる美術館となれば入場料をとる方に動くだろうに、大英帝国と富豪の国はつくづく太っ腹である。
今回は週末しか時間がなかったので、スミソニアンの中でも訪れるミュージアムも厳選。それでも個人的に外せない美術館は、何といってもやはりナショナルギャラリー(以下NG)だ。この日は街中をぶらぶらとしながらNGへ向かった。歩きながら高鳴る胸、目の前に現れた建物。遠めに見ても既に大きい。もちろん入っても大きい。天井を見上げすぎて首がもげそう。
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印象派は閉館中だった
ところが入るなり知らされたこと。
「一部、館内工事中のため、ほとんどの印象派の絵はみれません」
(2024年3月3日時点の情報です)
見る量が膨大過ぎるのではと心配していたので、妙なことだが印象派がみれないことに安心してしまった。それなら好きに回ろうと館内でもらった案内地図を見ながら歩き出した。最初に足を踏み入れた部屋にはなんと、フラゴナール!なんという巡りあわせだろう。その昔、人生初の展覧会でお目にかかった絵ではないか(なぜ美術館に行くようになったのか)!
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変わらぬ絵の色づかい、静かな雰囲気の中にも滲み出る少女の読書好きが伝わってくる。絵を習い始めて最初に見て記憶に残るあの絵だった。思わぬ再会に胸が熱くなる。ほかに英国の画家ターナーの、光の描写を全面に出した絵のほかに、アメリカならではの絵もちらほら。
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フェルメール
フェルメールの絵も何枚かあった。2023年オランダで開催されたフェルメール展では、世界中の美術館からフェルメールの作品を集めたらしい。裏を返せば、オランダの画家フェルメールの絵の多くはオランダや欧州外の美術館(や個人)が所蔵している。その時、ワシントンDCのNGからもフェルメール作品がオランダに渡ったに違いない。
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この3枚のうち右の一枚は、フェルメールの絵を長らく考えられていたが、今では異なるとの見解が出されていた。以下の説明が添えられていた。
フェルメールの作品と考えられてきた「フルートを持つ少女」ですが、
2020年~2021年、当館のチーム(研究者、修復専門家、キュレー
ター)はフェルメールの作品ではないと結論付けました。フェルメールの
画材や手法と似ている部分は見受けられますが、フェルメール独自の繊細
な筆づかいが認められませんでした。作者はわかっておりません。
ここで一枚ずつ見てみましょう。まずは問題の作品から。
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確かに、ひとめみてこれは「少女」ではありません。顔にあどけなさが残るものの、少なくともフェルメールの描く少女ではありません。下の二枚のタイトルは日本語では「女」ですが、英語ではちゃんとwoman とladyと使い分けています。つまり手紙を書く女性の方が秤を持つ女性より若い、ということ。 それに対して、フルートは「少女 (girl )」、3人の中でも一番若い位置づけになります。フェルメールが描く少女は、むしろ手紙の女性にやや幼さを加えた表情ではないか(そうあってほしい)と思いました。また、フルートを持ちながら帽子を被っているのもやや不自然と、フェルメールの絵からは感じることのない違和感もありました。もちろん素人の解釈ですが、このようにいくらでも解釈の幅が広がるのも美術の楽しみです。
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米国唯一のレオナルド・ダ・ビンチ作品
フェルメールとフラゴナールで満足しきってしまったのですが、せっかくなので、レオナルドの絵に向かいました。この絵は、おそらくNGでもっとも有名かつ必見の絵で、途中の通路に案内板が出ていたほどです。ダ・ビンチの絵(特に完成した作品)は世界的にも約20点と少ない中、米国(欧州以外)にある唯一のダ・ビンチの作品がこの「ジネブラ・デ・ベンチ」です。
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Ginevra de' Benci(ジネブラ・デ・ベンチ)というこの女性はフィレンツェの銀行家の娘で、教養豊かで詩の才能に恵まれていたと言われています。描かれた当時の彼女は16歳、兄の友人だったレオナルドは21歳。ということはレオナルド初期の作品ということでしょうか。レオナルドといえばルネサンス三大巨匠のひとり。当時、ルネサンスのフィレンツェでは、婚約か結婚の祝いに肖像画を贈られることが多かったそうですが、結婚であれば花嫁と花婿を対に描くケースが一般的とされています。となればこの絵は婚約のお祝いでしょう。私はこの絵を初めてみたのですが、何とも物憂げな表情にみえました。とても結婚を前にした女性の表情ではないなと。そこで、この16歳にしては何とも達観したような、しかしもの悲しげな表情が逆に気になってしまい、少し調べてみました。
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部屋の中心に設置された台の上で、絵はしっかり守られている
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この女性ジネブラは、ヴェネチア出身でフィレンツェ大使だった男性(ベルナルド・ベンボ)と知り合い、詩の話題を発端に手紙のやり取りを交わす仲になります。きっとしばしば手紙を交わしていたのでしょう。お嬢様なので手紙は何人もの人の手を介して届けられたに違いありません。プラトニックながらフィレンツェ中の噂の的になっていたようです。裕福な家に生まれたジネブラでしたが父親が43歳で逝去するや否や、34歳の男性(Luigi di Bernado di Lapo Niccolini)との結婚が決まります。夫となる男性は繊維業で財を成した商人、メディチ家ともつながりがあり政治力もあったようです。年齢の離れた男性との結婚を前に気が進まず、でこの表情なのかと思いきや、なんと魂の恋仲だったベンボも40代前半。しかも息子と愛人(!)がいたとのこと(ベンボめ、ジネブラに対して本気だったのだろうか⁈)。
そして、「この肖像画を依頼したのはそのベンボだった可能性もあることが、絵の裏面から示唆される。中央の植物はジネブラで、左右の植物ヤシと月桂樹はベンボの紋章である」とNGのサイトでは紹介されています(もしそうであれば、「この絵[の裏]に私もいる、この絵を私と思ってほしい」というメッセージを込めたベンボからの贈り物⁈ )。どちらの男性もジネブラからすれば倍以上の年上、というか親の年齢に近い。ジネブラの知性と教養を受け止めることのできる話し相手として、同世代の男性では物足りなかったのでしょうか。
この絵が描かれたのは1474~78年。ベンボがフィレンツェにいたのは1475~76年と1478~80年、その後フィレンツェに戻ることはなありませんでした。ベンボとの別れも堪えたのでしょう、時を同じくしてジネブラは病気がちになり、夫も長患いの妻をよく思っておりませんでした。療養を兼ねて田舎に移り静かに余生を暮らしているジネブラの元に届いたのが、かのロレンツィオ・メディチからのお見舞いの詩(※)。そこでロレンツィオは「もう過去は振り返らないておくれ」とうたい、ジネブラを慰め励ましたとのこと。いや、ここでメディチ家の登場ですか!!しかもよりによってルネサンスの最大の立役者、ロレンツィオ豪華王。なんというドラマティックな展開。いまさらながら、ジネブラは、かのロレンツィオ・メディチやレオナルドと親交がある(今だったら著名な財界人やアーティストと携帯やLINEで気軽に連絡を取り合える)ルネサンス期の押しも押されぬお嬢様だったことが見て取れます。
※ ロレンツィオ豪華王はもっともルネサンス最盛期時代のメディチ家当主でありルネサンスの立役者。何より芸術や文学に造詣が深く、政より詩を読んだり書いたりしている時の方が楽しく幸せと話していたと、読んだことがあります。
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中央の植物はジネブラで、左右の植物ヤシと月桂樹はベンボの紋章らしとの解釈も
時は流れ1520年にジネブラは63歳で生涯を閉じました。夫は15年前に先立ち、二人に子どもはいませんでした。世が世なら、ジネブラとベンボを一緒にしてあげたかった(というわけには実家の立場からすればいかなかったのでしょうが)。そしてこの絵が、生涯ジネブラに美しい思い出や慰めを与え続けたと願うばかり。ベンボのジネブラへの想いも真摯なものだったと思いたい。
作品が残っていたことは救いです。しかもこの絵を、あのレオナルドが描いたことにこそ意味があると思いました。妥協を許さないレオナルドは、納期を守らないことも多く未完の作品もあったようですが、逆に、徹底した細部へのこだわり、写実主義がレオナルドの持ち味でもありました。特にこの女性の透き通るような肌や、何かもの言いたげな目は、科学者の眼を持っていたレオナルドだからこそ見抜いて描写できたものです。また親しかった友人の妹の、しかも結婚前の肖像の依頼を受けた若きレオナルドはさぞかし気合が入ったことでしょう。これがもし、同じルネサンスでもラファエロやほかの画家が描いたとしたら、クライアントを喜ばすために明るめのトーンにするか表情を少し盛るなどしたやもしれません。そう、レオナルドでよかったのです。それにしてもこの作品、背景を知ったらやはりイタリア、できればフィレンツェに戻ってほしいと思えてきました。ワシントンNGはこの先もまず手放さないでしょうが。
ホッとする絵
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最後に明るめの絵をもってきました。カミーユ・ピサロの絵が目に留まりました。画家=ピサロのことなので、これはピサロの自宅の庭を描いた絵で、「我が家の庭」と捉えられるでしょうか。こうした自然や日常生活を描いた絵が実はホッとして好きです。色遣いもきれいで、筆致も画面の中で所々変化しており観ていて飽きません。
オランダ絵画やドイツ絵画もみれればよかったのですが、今回はここまでとしました。次回は丸一日かけてゆっくり観たいものです。