見出し画像

なぜ美術館にいくようになったのか

ここ5年くらいのことです。暇と機会を見つけては美術館に行くようになりました。美術や陶器、工芸品に触れる時間が何ともたまらない至福の時間です。有名無名を問わず絵画や作品を前にすると、画家をはじめ作品を生み出した芸術家の思いや苦悩も時々みえ隠れします。もちろんそれは一枚の絵だけではありません。絵の横にあるキャプションを読んだり、オーディオガイドを聞いたり、はたまた美術展の中にある説明パネルを読んだりしながら、いろいろな情報が入ってきます。画家の生きた時代や環境は様々で、現代とは大きく異なります。それでも、絵を前に立っていると、ふと、画家の描いていたであろうビジョンや想い、生活や人生の苦悩が浮き彫りになることもあります。それがその時の自分の境遇や思いと重なることもあれば、ぼんやりと遠い世界のことと映る時もあります。絵と語らいながら想いを馳せ自分と対峙できる、自分だけの時間が過ごせる時間、それを求めて美術館に足を運ぶようになりました。

足しげく通ううちに、ふと一体いつから美術館通いをするようになったのだろう、と記憶を手繰り寄せていくうちに、思い出したことがあります。なぜか思いっきり忘れていたことでもありました。

***

小学3、4年生の頃、近所の絵の先生に絵を習い始めました。習うといっても週一回、ほとんど好きに静物画を画用紙に描いてみる、ときどきデッサンが入る、そんな水曜日の午後でした。年配の女の先生で、とくに細かい指導を受けることもなく、ときに「ここにうすく影があるといいよね」「ここの線はなあに?」と一言二言、先生がつぶやくくらいでした。きっかけは、私が絵を習いたいと言った覚えもなく、母に強いられたわけでもなく、おそらく近所の数人の友だちと一緒に始まった習い事でした。それでも数年続いたのでおそらくお絵描きが嫌いではなかったのでしょう。何より昔の小学生、時間だけはたっぷりあったに違いありません。

そのうち別の先生に習うことになりました。やはり近所に住むS先生でした。私から見ればどちらの先生も大人の女の先生で、最初は違いがわかりませんでした。それまでの先生はデッサンや水彩画だったのが、S先生のところでは油絵になったことが大きな違いでした。母が油絵の道具を買い揃え、いざS先生宅へ。油絵の道具ってずいぶん重いなと思った記憶があります。キャンバスを立てるイーゼルはいつも先生が貸して下さいました。思えば、私はS先生の最初の生徒でした。S先生は当時おそらく30代、二人のお子さんはまだ小さく育児真っ最中。特に下の3才のお子さんは絵を描いているときによく入ってきて、やたら歩き回ったり話しかけては「僕が教えてあげようか?」と笑いを誘っていました。

S先生も思いっきり絵に時間を割きたい中、子育てや家事でなかなか時間が取れない状況だったと思われます。そこへ「うちの子に絵を教えていただけませんか」との急な依頼。もしかしたら絵に戻るきっかけができて、嬉しかったかもしれません。週一で火曜のレッスンで生徒は私一人、ときどき「今度は木曜でもいいかしら?」とか二週間後になることも、ままありました。油絵具が乾く必要があるとのことでしたが、おそらく先生の用事がいろいろあったのだろうと今なら想像して余りある状況です。

キャンバスのサイズは6号から12号の間でいろいろでしたが、サイズを問わず油絵は何回にも分けて仕上げます。といっても仕上げのゴールは特にありません。本人の納得するまでの場合もあれば、これ以上筆を加えない方がいいと判断して仕上げとすることもあります。判断も、先生が言いだすこともあれば、この辺で終わりかなと自分で思う時もありました。月謝制だったので、ここで仕上げないとレッスン代があと一回増えるなどの心配も、そもそもそんな知識すらも、子どもの私には皆無でした。

絵をかきながら静かで不思議な時間が流れていました。黙々と描いているうちに、気づくと先生もキャンバスに向かっていました。
「ちょっとこの辺で休みましょうか」
ときどき先生がそう言われてお茶の用意をしてくださいました。その時のS先生の後ろ姿が弾むようにみえ、どことなく嬉しそうでした。私にとってもお茶の時間はなごめる、ひそかな楽しみの時間となりました。ある時、
「ねえ、美術館って興味ある?今度一緒にいってみない?」

人生初めての展覧会はフラゴナール展でした。

子どもだった私には電車に乗って都内まで出かける初めての経験でもあり、ちょっとした遠足気分でもありました。以来、何度か先生に連れられて都内の美術館に足を運ぶようになりました。上野の美術館のこともあれば、デパート開催の美術展のこともありました。ある時、友人に言われた何気ないひとこと。「余白ちゃんて美術館とか博物館、〇〇展とかによく行ってるよね。珍しいよね。なんで?」
楽しい時間になるからとしか思えず、答えに窮した記憶があります。

公立の小中学校に通っていた私は、学校は嫌いではなかったのですが、とくだん好きでもありませんでした。社会科見学は好きでしたが、教室に座っている時間も集中できずぼんやり外を眺めていました。いまだから言えますが、ちょっとの風邪で学校を休んだことは数知れず。対照的に、S先生について回る時間は日常や学校とは離れた心躍る時間でもありました。

そうこうするうちに、ある日のこと、不意に先生に聞かれました。
「余白ちゃんは画家でだれが好き? 」
好きな画家いる?ではなく、誰が好きとの不意な問い。好きも何も、知識もないなか少し考えて絞り出した答えが、なぜか・・・

ルーベンス  

自分でも驚きの答えでした。その頃は中学生だったので、ルーベンスの絵をどれだけ観ていたのか甚だ疑問ですが、ルーベンスが口をついて出たことだけははっきりと覚えています。もしやフランダースの犬の影響でしょうか?最近、西洋美術史をかじるにつれて、ルーベンスはベルギー出身の画家、写実が得意な上にイタリアに滞在した経験から大きなサイズの絵や大仰な筆致の作品など、イタリアの影響も受けています。多言語を駆使する外交官でもあったため、欧州の押しも押されぬ大スターであったことを知りました。タイムマシーンがあるのなら当時に自分にぜひとも聞いてみたい!なぜルーベンスって答えたの?と。

中学3年生の夏、仲良しだった同級生が大阪に転校していくことになりました。悲しかったけれどぜめて何かと思いついた結果、絵を贈ることにしました。桃と梨の静物画で、S先生に転校してしまう友達に贈る絵を描きたいと話したことを覚えています。去年、その友人に会ったとき、あの絵はまだ実家にあるといわれ驚き、何とも気恥ずかしくも嬉しかったことを思い出します。

S先生に絵を習ったのは高校生まででした。大学生になり家を離れたためです。ある時、先生から「ルーベンスが好きになるのはわかる気がする」との文面の手紙をいただきました。ああ、あの何気なく答えた日のことを先生は覚えて下さっていたんだ、としみじみと思いに耽りました。その後、先生は50代の若さで急逝されました。あまりに急な知らせを受け容れるには時間がかかり、母とお参りに伺ったときに遺影の前で、美しい先生の笑顔を前に展覧会を一緒に回った日々とお茶の時間を思い出し、自然と涙が流れて止まりませんでした。

***

時は流れ、日常に忙殺されていた中ふとした時に美術館を訪れたいと思うようになりました。コロナ禍では入場制限もある中、時間を無理くりつくってでも何とか美術館だけはいくようになりました。興味の範囲も、おのずと西洋美術から、イスラム美術、日本美術や仏像など少しずつ広がり展開していきました。2020年以降、たとえ美術館にいけなくても、書籍やオンラインで美術や美術史に触れる機会が急増しました。有難いことです。いまや美術に触れる時間は日常の一部であり支えになっています。

いったい何がそこまで私を突き動かすのか。在宅勤務が続き、親の介護も出てきた中、おそらく自分だけの時間をどこかで欲していたのだと思います。それには絵画や建築に触れる美術館で過ごすことが自ずと浮かんできたのです。以来、美術によってどれだけ癒されエネルギーをもらえたことか。苦しくても、なんとかなる、また明日が来る、と思えるようになったことか。その原点となったのは子ども時分の美術館いきであり、道しるべを示して下さったのは紛れもなくS先生でした。

人生はいろいろな出会いや場面、起伏やでこぼこした道のりの連続がつきもの。子ども時分にS先生と過ごした時間は、私にとってまさに点と点が線になる、ときに点線が実線になる、なくてはならない布石でした。いま振り返りようやくわかりました。改めて、S先生への感謝の念を刻みたくここに書きとどめる次第です。

ここまでお読みいただきありがとうございました。