見出し画像

#0006

仮に世界最初の映画が『工場の出口』(1895)だとするならば、2024年の今日、映画はその歴史から1世紀と29年という年月を持っているということになり、その期間の間には当然数多くの流行と、そしてその没落がありました。
今回注目するのはその中でもバイカーズ・カルチャーについてであり、1981年公開の『ラブレス』について観察することで如何に映画というカルチャーが時代的な影響を強く受けているのか、そして時代性をそれ自体が保持しているのか、という点について考えていきたいと思います。

その始め、若者たちの怒りと反抗の象徴であったバイクは時代の中で徐々に形骸化していき、「反抗のシンボルだったもの」という空虚なイメージに変わっていってしまう、そのプロセスが『ラブレス』という映画の中には非常によく表れているのです。

"The Loveless" (1981)

この映画は後に女性としては初めてのアカデミー監督賞を受賞することになるキャスリン・ビグローによる長編デビュー作であり、そこでは従来とは全く異なる質感のバイカーズ・カルチャーが、即ちその起こりであった50年代への憧憬を表現しつつ、その解体と虚無を明らかにするという決定的に異なる2つの事象が同時に描かれています。

映画は主演を務めるウィレム・デフォーがバイクに寄りかかるショットから始まります。
ロウ・アングルから徐々にカメラがティルト・アップし、足元から全身に至るまで全身を真っ黒のレザーで固めた彼がジャケットの襟を正し、取り出した櫛で髪を撫で付ける姿を舐めるように映すカメラは不思議なエロティシズムを一杯に湛えているようでもあり、しかしそれは男性的でホモソーシャルな、言わばオールドスクールでクリシェ的なエロティシズムであると言添えておくべきものでしょう。
このキャラクター像というのは続くシーンで更に明らかにされるものであり、彼は道端でタイヤをパンクさせてしまった女性に出会うのですが、彼のぶっきらぼうな話し方と暴力的に彼女を掴んでキスをする様子はどこからどう見ても50年代的(かどうかは置いておくとしても旧時代的)な怒れるティーンエイジ男性の典型例であり、不機嫌そうな顔をしてバイクを走らせる彼の姿からは捉え所のない不満足(dissatisfaction)が、それは丁度『イージー・ライダー』(1969)をはじめとする先駆的な映画の数々が表現してきたものですが、それが伝わってくるようです。
加えて何度も何度もジャケットの襟を開いては閉じ、髪を撫で付け、ゆっくりと動くウィレム・デフォーとそれを淡々と、けれども明かな目的意識を持ってわざとらしく収めるカメラからは思わせぶりでポエティックな、或いはキャンプ的とでも呼びたくなるような、そうした空気感が醸成されており、我々は冒頭の数分から50年代的なものへの強いシンパシーを感じざるを得ません。これは衝動的、直感的な映画なのではなく、強い作為の意図の上に作り上げられた詩的な側面を持つ映画なのだ、ということですね。

さて、彼は何かの職についているということはなく、ただバイクを乗りこなしてアメリカ中を転々とする放浪者(drifter)なのですが、女性と別れた後小さな町にあるダイナーに立ち寄ります。そこで合流するのは彼の友人たちであり、そのいずれもがウィレム・デフォーと同様全身をレザーで包んだ、これまた典型的なバイカーたちであって、彼ら(女性も1人含まれています)は一様に暴力的な話し方と振る舞いでダイナーの店主にも不敵で挑発的な仕草で接しています。
ここまでが大体映画の導入部分にあたり物語が動き出すのは彼らが立ち寄ったガソリンスタンドに於いてなのですが、そこでバイクの修理に時間が掛かると告げられた彼らはアメリカの片田舎、何の面白味もない街で1日足止めを喰らうことになるのです。

暇を持て余したウィレム・デフォー演じる主人公(Vance)はスタンドのオーナーの娘(Telena)、これをマリン・カンターが演じているのですが、に声を掛け彼女の車に飛び乗ると、バイクから車にハンドルを持ち替えて再び行く宛てのないドライブに出かけるでしょう。髪を短く切り揃えた彼女もまた日々の生活に退屈した、反抗的なティーンエイジャーであり、実際監督のキャスリン・ビグローは飽くまでバイカーである彼の男性性、クリシェな姿を損なうことなく同時に彼女の危なげな魅力を引き出すことに成功している点がこの映画の最大の魅力となっています。例えば次の様なやりとりが見られます。

Telena "You're just a hophead with a big old bike"
Vance "Damn, You're just a kid with a scar, dead mom, too much car…"
Telena "Police record"
Vance "A little light upstairs"
Telena "And I stopped being a kid when I was 12"
Vance "So, what do you know about hopheads?"
Telena "My daddy calls me a slut, I think more of it as a skill, maybe a talent"
Vance "Looking for business?"
Telena "Well, let me tell you, I know I could send you to heaven"

Lines from "The Loveless" (1981)

ウィレム・デフォーは終始一貫して粗暴な物言いで、彼女もそれに負けじと言い返しながらも台詞の3行目、気の利いた返しで彼を驚かせる。2人のパワー・バランスが上手に表現されているやり取りだと言えるでしょう。
またその一方で過度に直接的な言い回しを避け、ドラッグをどこで知る様になったか、といったディテールは遠回しに仄めかすだけに留めつつ、威勢の良さも保ち、そして彼の露骨な誘いには、Yesと答えずに返して、否定もしない。非常に優れた脚本だという風に考えています。

この台詞の効果について具に計算してみると、やりとりは現実的な掛け合いというよりも映像とマッチした、詩的な表現と言えるもので、全体的な50年代へのノスタルジーという部分は崩されていません。ウィレム・デフォーの振る舞いは映画冒頭で彼が見せた女性へのものと大きくは異ならず、物語的な引力は「彼(バイカー」)が彼女と何をするのか」という部分にあると言って差し支えないと思います。
しかし彼女が "My daddy calls me I'm a slut, I think more of it as a skill, maybe a talent" という台詞を発する時、そこに見られるのは内側からの静かな捩れであり、つまり本来バイカーではない彼女がアウトサイダー集団の一員であるウィレム・デフォーと出会った時、彼女は本集団である家族と家族的な価値観への疑問を呈した、ということであり、それは1981年という未来からの女性像のアップデートという意味合いもあるのかもしれませんが、何より内側から外側への反抗力が反発的な外部集団と接触した、という意味で捉えるのが一番でしょう。ノスタルジーに守られたバイカーというイメージがそれと同じくらいの力強さに溢れた彼女のイメージと接触する時、物語の軌道が少しずつ変化していくのです。

"The Loveless" (1981)

さて、彼ら2人はその後モーテルへ車を走らせ、一気に映画は彼らが裸でベッドの上に横たわるショットまでカットされます。会話にあったような荒々しさは一転してどこかへ消し去っており、どんよりとした、言われようのない倦怠感が画面の全体から漂っているでしょう。
しかしその倦怠感を破る様にして突然銃声が轟き、慌てて服を身に纏って窓の外へ見やるウィレム・デフォーを横目にショットガンを携えた父親、彼らが出会ったガソリン・スタンドの経営者でもあるのですが、が飛び込んできます。
彼が乱暴に娘を引き寄せ連れ去っていく様子をウィレム・デフォーはただ黙って見ているだけであり、その姿は決して恐怖しているとか呆然としているとかいうものではなく、ただじっと無表情で眺めているだけです。それは反抗や抵抗の意思がないと言った具合で、これまでバイカー像、怒れる少年像の典型として描かれてきた彼の姿がここで少しずつ変化していきます。

オリジナルなバイク・カルチャーというものを考えてみると、彼らが乗りこなすバイクというのは言わば自由の象徴、単なる移動手段というだけでなく移動していることそのものが社会のしがらみや体制による圧迫から逃れ、自分の思うままに生きることのメタファーとなっていたのでした。
これは言い換えると移動手段が剥奪された時、バイクが機能しなくなった時に彼らの自由もまた消えていってしまうということであり、映画の中でキャラクターたちは往々にして自由の守る為に、或いは自由を諦めない為に移動手段であるバイクを賭けて闘わなければなりませんでした。
ですから彼らの反抗の対象としてよく登場するのは警察官、特に白人の警察官であり、彼らはバイクを押収し留置所へ閉じ込めるという、つまり移動の手段を奪って不自由な場所に閉じ込めるという彼らの理想とは全く反対の行為を行います(=それ故に敵対者となる)。或いはこうした警察官がバイカー達を逮捕するのは一般的には公共の為、彼らが公共の平和を脅かしたとする理由の為であり、その公共を代表する存在として例えば中年の白人男性が直接的にバイカーたちに暴力を加えることもあります。彼らは保守的価値観、つまり少年たちが反抗するところの価値観を代表しているのであり、両者の対立はジャンルの慣習上避けられないものでした。

こうした背景/文法を踏まえて考えてみると、2人の間に踏み入って彼女を連れ去っていった父親というのは本来真っ先にウィレム・デフォーが反抗するべき人物だったということが予想できるかと思います。
彼のキャラクター像は基本的に全くのテンプレートで白人の中年男性、家庭内では非常に抑圧的で盲目的な幻想を信じ、それに耐えきれなくなった母親(つまり彼の婚約相手)は自殺をしてしまっています。
ガソリンスタンドの経営者である彼は端的に言って資本を持つ人間、中産階級に属する訳ですが、彼自身は全くそうした認識を持つことはなく、舞台となる小さな町のコミュニティを過剰に信じ切っておりその町が存続する限り自分の人生も同じように続いていくのだと思っているのでしょう。経営者とは言いながら従業員に対しては横暴で、立ち寄ったバイカー達に対しても「気に入らないから」という理由だけでサービスを拒んでいることからも分かるように、彼にとって経営とはビジネスを行い対価を得ることを意味するのではなく、そのコミュニティに所属し、内部的な自己保存システムの一部となることを意味しているのです。
挙句に映画の終盤、彼はバイカーたち一同を誰も悲しまないし寧ろ町の為になるなどと語って皆殺しにすることを目論むのですが、その際バイカーたちのことをコミュニストだと呼びます。これもまた非常に当時のアメリカのテンプレートであり彼にとってコミュニストとは共産主義者のことではなく、アメリカ的なもの、自分がその一員であると自認するところの価値観にとっての敵を意味しています。共産主義者である故に自分の敵である、という理屈ではなく、自分の敵である人間は皆共産主義者である、という原因と結果の捩れが起きている訳です。彼の無知がもたらすところのステレオ・タイプは如何に自分が所属するコミュニティに支えられ、そしてその支えを求めて縋っているのかという彼の本質的保守イデオロギーを明白にしていると言えるでしょう。

その彼にウィレム・デフォーが反抗しなかった。これはジャンル的な眼差しから考えるに非常に奇妙なことです。
この無抵抗の姿勢というのはクライマックスまで継続するもので、彼女が連れ去られて後ウィレム・デフォーは仲間のバイカーたちとバーに集うのですが、そこにスタンドのオーナーが現れます。既に触れた通り彼の目的とは彼らを排除してしまうことであり、そうして恐らく毎日同じビールを片手に、同じ面々に対して、同じ女性によって繰り返されているであろうストリップ・ショウや、それが行われているバーの空気感、それを取り戻す為に彼は暴力を決断するのです。
しかしながらウィレム・デフォーとその仲間のバイカーたちは無気力、無抵抗、無感情のままで、自身の生死がかかっている場面でありながらも彼らはどこか享楽的、unseriousであるように見えます。バイカーの1人と揉み合いになったたオーナーに対して、腹部へ銃弾が命中するのですが、それはどこからともなく現れたマリア・カンターによるもの、実の娘によって撃たれた銃弾でした。それに対しバイカーの1人はヒステリックな笑い声をあげ、銃を2度、3度と繰り返し発砲していくのですが、その銃弾はバーカウンター後ろの酒瓶に突き刺さり、破裂して、その場をより混沌としたものへしていきます。
結局彼らは何ら具体的な反抗を見せるということはなく、映画の冒頭から示されていたバイカー像というのはノスタルジーに過ぎなかったということが示されます。彼らは怒れる少年たちではなく、怒れる少年たちのポーズをしていたに過ぎないのであり、そして怒るべき対象を持たないと分かった時の彼らにはただ虚しさだけが付きまとうばかりで、それはバーカウンターに向かって放たれる銃弾によって象徴されているように、つまり対象に向けられるのではなく単なる快楽の為に行われる破壊行為と同じであるように見えます。
そしてクライマックス、映画はウィレム・デフォーが呆然とした表情でバーを出て駐車場に立つ姿を捉えるのですが、その視線は父親を殺したマリア・カンターが車の中へ消えていく様子に向けられています。
彼女について思い返してみると、虐待的な父親に抑圧され、彼の為に母親を失い、不自由な生活を強いられてきた、というキャラクターでした。その彼女が父親に銃弾を向ける時、それは決して反逆として捉えられるべきものではなく(それは随分と楽観的な考察であるように思います)、こうなるしかなかった、という必然の破滅だったのではないでしょうか。

"The Loveless" (1981)

続くシーンで彼女は銃口を自分の口元へ運び、脳天を貫いて、そしてそれを眺めていたウィレム・デフォーは何かを何かを発することもなくバイクのエンジンをスタートさせ闇の中へと走り去っていきます。
この時実際に銃弾が発射される場面で映画は2人が車を走らせていた時のシーン(本記事で会話を抜粋したシーン)から、マリア・カンターのクロース・アップへとカットされ、そこから彼女の死体へとカットバックされるのですが、この時に見られる彼女の顔というのは恐らく運転席から眺められたものであり、従ってこれはウィレム・デフォーが抱いたイメージだということが暗示されている訳です。

映画のタイトル、邦題では『ラブレス』ですが原題では "The Loveless" となっており、定冠詞が付いていました。定冠詞の働きの1つには何か象徴的なイメージをまとめ上げる、というものがあるのですが、例えばある特定の具体物を意味する名詞の前に付いて「その具体物というのは総じて〇〇である」と言った意味を表現することが出来るのですね。
この象徴の働きをする定冠詞が今回のように形容詞の前に付いた場合、それは「総じて〇〇なものたち」という風にその形容詞が意味するところの性質を持つもの全てを表現することが出来ます。ですから "The Loveless" というタイトルは「愛されなかった」というよりも「愛されなかったものたち」という意味を持っているのだと理解することが出来るでしょう。

このことを踏まえて先ほどのカットアウェイとクライマックスについて考えてみると、タイトルが二重の意味を持っているのだと理解することが出来ると思います。
まず1つにはマリア・カンターその人のことを意味しており、彼女は文字通り「父親に愛されなかった人」でありました。そしてこのカットアウェイが入り、ウィレム・デフォーのイメージが示された時、我々は必然的に彼が彼女へ抱いていた感情、それが愛であるかどうかは断定出来ないところですが、少なくとも愛に似た何らかの感情を想起せざるを得ません。そしてその連想はマリア・カンターを二重の意味で「愛されなかった人」にするでしょう。つまりウィレム・デフォーというアウトサイダーに見出されながらも彼のような自由な集団の中には引き入れては貰えず、また(モーテルと、そしてバーに於いての2回とも)救っても貰えなかったという「愛されないまま終わった人」でもあるのです。
ですから彼女が実の父親を撃ち殺した時、それは何かに対しての反抗というのではなく、何故なら反抗とは不満だけではなく改善された未来へ対する多少なりとのイメージが必要な行為ですから、寧ろ愛されなかった彼女がたどり着くしかなかった悲劇であるという風に捉えられるのだろうと思います。虐待を受け、そしてアウトサイダーにもなれず、またそのコミュニティにも真に受け入れて貰えなかった彼女にとってこの結末は避け難いものだったろうと思うのです。

またもう1つにはウィレム・デフォーと彼に代表されるバイカーたちも「愛されなかった人たち」なのであり、そして銃弾に倒れた父親自身もまた「愛されなかった/愛し方を知らぬ人」でありました。
彼らがアウトサイダーになった経緯は明かされていませんが、きっと彼らにもマリア・カンターと同様に不満を持ち、そして耐えきれなかった部分があった筈でそれ故にバイカーとしての生き方を選択した筈ですが、しかしながら彼らの間に深い連帯というのは感じられず寧ろ常日頃からお互いの間に距離を保って生活しているような、そんな態度であるかのように見受けられます。また不満を持っていたとは言えどその不満が何らかの行動に変わることはなく、暴力的・反抗的姿勢は飽くまでもポーズだけのもので、これは既に説明した通りですが、実際に何らかの対象に向けられることはありません。
これは単には彼らが反抗するところのもの、つまり希望的なイメージという理想像を有していない為であり、そして彼らがそのイメージを持つことが出来なかった理由とは正しく彼らが「愛されなかったものたち」であるからだと考えることが出来るでしょう。愛されなかったが為にアウトサイダーとなった彼らは愛する術を知らないからこそ「愛される社会」を描けなかったのであり、故に愛に直面したとしても(=マリアン・カンターと出会った時も)それを行動に移すことが出来なかったのです。また父親についても同様で、社会に愛というものがあると彼は信じていたのかも知れませんがそれは脆く儚いもので、そして事実として愛を知らなかった彼は娘に愛を授けることが出来ず、また愛によって刑に処される(=反逆される)こともありませんでした。

"The Loveless"(愛されなかったものたち)という映画はまとめると次のような側面を持っていると言うことが出来るでしょう

  1. 愛されなかった為に社会から外れざるを得なかったバイカーたちの物語

  2. 父親から愛を受けられなかった娘が破滅へと向かわざるを得ない、その道を描いた物語

  3. 愛されなかった者たちが愛に似た何かを感じる物語

  4. 存在しない愛があると盲目的に信じている男の物語

  5. 愛を持たない者たちが結局愛の不在に敗れていくと言う物語

1番と3番はバイカー、特にウィレム・デフォーについての物語であり、愛されなかった者たちが如何にアウトサイダーとして生きざるを得なかったか、と言う部分を描いている物語に当たります。これは他のバイカー映画にも共通する部分で、監督のキャスリン・ビグローは先行作品との関連も意識しながらノスタルジーたっぷりに描いています。
対して2番と4番が彼女のオリジナリティに当たる部分で、彼女はそうしたバイカー・カルチャーが如何にハリボテで中身の薄いものであったか、そもそも社会には愛など存在せず、故に彼らの怒れる少年像というのも見せかけに過ぎず、結局は何ら意味のある反抗など存在しなかったのだ、という風にマリア・カンターを通じて自身が作り上げた幻想を解体してみせます。
そして総括としての5番、愛の存在しない社会でバイカー/アウトサイダーというのは自分を誤魔化すだけのポーズに過ぎず、それは例えば全てが手遅れになった後で酒瓶に向かって銃を撃って狂った笑い声を上げるというような、そうした無意味なものなのだということを唱え、同時に彼らが外れていった社会の内側にも愛などはないのだと両批判を行います。
1981年という年はひとしきりバイカー・カルチャーやヒッピー、政治の季節(60年代)にも区切りがつき、社会全体が明るいものを求めるようになり始めた、そんな移り変わり時代です。『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)が発表されて以降のディスコ文化は『フットルース』(1984)などへ受け継がれていきましたし、『ジョーズ』(1975)以降本格化したブロック・バスター映画の製作は『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)、『ターミネーター』(1984)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)へと受け継がれていきます。『ブレックファスト・クラブ』(1985)や『恋人たちの予感』(1989)のような無邪気なコメディ映画が全盛であったことも忘れてはいけません。
そうした時代に於いて冷静にバイカー・カルチャーを見つめ直し、彼らの反抗は社会を大きく変えるには至らなかったのだ、というニヒルな眼差しと、そこに不在していた女性の物語を織り交ぜて、何処にも愛の存在しない社会を描いてみせた、これが『ラブレス』という映画の本質なのだと言えるでしょう。

"KIDS" (1995)

『イージー・ライダー』等の作品を見返してみると、バイカーたちに授けられた期待/熱量の度合いには驚かされるばかりで、彼らがアウトサイダーとしてほとんど時代の代弁者的な立ち位置を背負わされていたことを考えると、この『ラブレス』という映画は時代に1つの区切りを付けた作品だとも言えるかも知れません。
この作品以降バイカーに対して真剣にアウトサイダーとしての立ち位置、モダンな言い方をするのであればオルタナ的な存在感を仮託する作品というのはメジャーでは表れず、また人々の関心も異なる方向へと移っていきます。
90年代後半から00年代に於いてバイカー・カルチャー的な立ち位置を占めていたのは恐らくスケートボード・カルチャーであり、そして10年代にはインターネットや仮想空間、SNSなどをギミックとして用いたヴァーチャルな方向へ向かう作品と、そもそものアウトサイダーという立ち位置を破壊し平等な小集団を構築しようとするような作品、例えば『タンジェリン』(2015)や『ムーンライト』(2016)などが見られるようになるでしょう。

オルタナティヴ、反メインストリームという視点から『ラブレス』(1981)という映画は無視することの出来ない作品であり(単純に映画としても面白いのですが)、この映画を見ることで1つの文化がどのように継承され、批判され、そして形を変えて受け継がれていくのかという系譜を辿ることが出来る、そうした意義深く興味深い作品だと言うことが出来るのかと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?