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私の恋愛観、結婚観1:私の根源たるもの

こんにちは、みなさん!リューくんです。

今日はnoteを始めた記念に、自分の恋愛、結婚観について語りたいと思います。

今日は、恋愛観と結婚観に入る前に、価値観の形成について話します。

人の価値観というものは、いつ生まれてくるのでしょうか?

私の考え方のルーツを探っていくと、宗教、家族の話をしなければならないのです。

まず、宗教という言葉において、誤解を未然に防止しましょう。私と家族の宗教は世界的に極一般的なキリスト教の中のバプティスト教会です。統一教とか数多い韓国系のカルトとは無縁だということを、まず書いておきますね。

27歳の私の記憶を遡ると、その根源の始発にあるのは、3歳の時のトラウマのことです。

私の家族は、お父さん、お母さん、3歳上のお姉さんで構成されていて、お父さんとお母さんは信心の深いキリスト教徒です。二人が出会って、結婚したのも、今通っている教会でのことです。

お父さんは、機械が好きで、すごい努力派の仕事人間です。キリスト教の思想を個人的に研究するほどの熱心な信者でもあります。キリスト教徒率が高い韓国でも、真剣に宗教と向き合う珍しい人種です。

お母さんは、感情的で、勉強頭は強くないですが、配慮心が高く、辛抱の強い人です。理解があって、よく自分の行動を省み、反省する人です。キリスト教への心は強いですが、教理的な部分では弱い、行動派教徒です。

お姉ちゃんは、そうですね。私より3歳上で、典型的な韓国女性。トレンドに敏感で、流行りに流されることはありますが、音楽的な才能が高く、社交的で旅行好きなところもある人ですね。

私が3歳の時、お父さんは有能すぎるほど有能な機械工学者で、そんな有名な大学でもない首都圏の私立大学の学部卒の身分で、半導体ベンチャー企業の若い研究所長になり(お父さんが28歳の時から)、毎朝5時には会社に行って、22時になって帰ってくる忙しい生活をしていました。この時期、韓国は週6日勤務で、日曜日は教会に行かないと行けなかったので、私はお父さんと家で会うことが滅多になかったのです。

そのため、私と姉ちゃんの面倒は専業主婦のお母さんが全部することになっていました。

幸い、マンションの隣の家のおばさんと、その兄弟とは仲が良かったので、お母さんの荷は少し軽かったのです。

事件は私が3歳児の時でした。私はお姉ちゃんと些細なことで喧嘩をしました。いつものようなことです。年の近い兄弟って、よく喧嘩することなんですから。

しかし、その日にはお父さんが家にいたのが、いつもと違うことでした。

お父さんは、いつも疲れていました。それはそうでしょう。お父さんは22歳卒業と同時に、兵役の代わりに半導体会社の研究員として(専門研究要員)働き、若くしてすごく思い社会的な責任を背負っていました。家庭のことなんて、多分集中できなかったのでしょう。

子供にはそんな大人の事情などわかるわけがなく、喧嘩をしていたのです。

お父さんはきっとうんざりしたのでしょう。私たちは怒鳴られ、30センチのプラスチック定規が2個も折れるまで殴られました。

恐怖。

いつもお母さんといると、それは殴られたり、怒られたりはしましたが、ちゃんとお母さんは理由を教えてくれまして、愛情が子供心にも見えました。

しかし、その日のお父さんの怒りは、純粋な怒りでした。「許してください」と言っても、お父さんの気分が和やかになるまで、殴られるだけ。

泣いても泣いても終わらない暴力。無力感、恐怖、絶望、

お父さんの怒りは、いつも予想できないタイミングに訪れてきました。

お父さんの怒りの閾値があって、それが職場のストレスでも家庭でのストレスでも溜まって、トリガーがあると、爆発する。その仕組みだったでしょう。
それも自分の子供(韓国では、子供は親の物として扱われたりしました)だったらよりトリガーになりやすかったのでしょう。

その事件以来にも、中学一年、初めて買ってもらったiphoneを、家の外で使ったという理由で、殴られたり、小学生の時、自分が描いた絵が気に食わなくて、お父さんに見せずに捨てたという理由で殴られたり……

それは私にとって、いわゆる、一般的な男性性に対する嫌悪として徐々に発達していきます。(これは後日、恋愛観と結婚観に影響を及ぼします)

要するに、私の家庭において、模範になるような男性性というものがなかったのです。

私に男性性というものは、暴力、拘束、支配みたいなものとして認識されました。

そして、キリスト教。

キリスト教の究極的な理想は、「愛に満ち溢れた世界」を作ることです。

教理はいくらでもあるが、その中、どれも「愛」には敵わない。

そんな宗教ですが、私が幼少期経験したキリスト教は、旧約の世界でした。

いわゆる、教理に従わないと、罰を受けて、地獄に落ちる。欲望は罪の根源で汚いもの。

みんなを救う愛より、健全な欲望より、罪意識を私に植え付けたのが、キリスト教会でした。

私は、お父さんが全くいい人として生まれ変わる2012年まで、常に罪の意識と、男性性への嫌悪を持って生きることになったのです。

ー続くー

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