【読書メモ】暇と退屈の倫理学

【メモ】
・因果関係という型が頭にあるからこそ、焚き火を見て「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」と感じる。(さもないと「焚き火が燃えている」「なんとなく顔が熱い」という2つの独立した感覚が同時に芽生えるだけ)→人間は世界を受け取るだけではなく、それらを自分なりに主体的にまとめることができる。しかし現代社会ではこの主体性は人間ではなく産業によって作り上げられている。→暇の搾取が起こっている。
・人間の不幸は、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。
・ウサギ狩りをしている人にウサギをあげても満足しない。→幸福な人とは、楽しさや快楽を得ることができる条件のもとに生活している人ではなく、そうしたものを心から求めることができる生活をしている人。
・人が豊かに生きるためには贅沢が必要である。→浪費とは必要を超えて物を受け取ること(=贅沢)であり、いつか満足=限界が訪れる。消費とは物に付与された観念や意味を消費することであり、終わりがない。現代は消費社会であり、人々の満足の欠如が強く感じられるようになっている。=退屈が生じる。
・現代では労働までもが消費の対象になっている。→労働はいまや「忙しさ」(もしくは「生きがい」)という価値を消費する行動になっている。→同様に、余暇までもが「何かをしなければいけない時間」になってしまっている。
・人間であるとは、退屈の第二形式(退屈に向き合って生きること)を生きること。→生とは元来辛いものなのである。
・考えるとは何かによってとりさらわれること。→何らかの衝撃によって己の環世界(=自分がまとめている世界)を破壊されること、つまり環世界に不法侵入してきた何らかの対象がその人間を掴み放さず、思考することしかできなくなる。
・大切なのは、不法侵入さえも拒絶して退屈から逃げた結果「何かの奴隷」になってしまわないようにすること。
・芸術や食事といった日常的な楽しみに、より深い享受の可能性がある。
・贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式(退屈に向き合って生きること)の中の気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである。→人はパンのみに生きるにあらず。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、バラも求めよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。
・奴隷状態ではなく、退屈を時折感じながらも物を享受する生活であれば、思考する余裕が生まれる。→楽しむこととは思考することである。
・自分は一体何に取りさらわれるのか?人は楽しみながらそれを学んでいく。→そうした対象を本人が退けている可能性もある。大切なのは、「待ち構えること」。世界には思考を強いる物や出来事が溢れている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで人はそれを受け取れるようになる。
<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。

【自分なりの解釈】
・「退屈」と感じることは悪ではない。人間は元来そういった生き物だから。
・退屈から逃げるために消費の奴隷になっても解決にはならない。新たな退屈が生まれるだけ。所有欲や承認欲を満たすためだけの買い物、目的や終わりのないSNSを見るだけの時間、等の奴隷にならないようにしたい。
・退屈と気晴らしが入り混じった人生において、日常的な楽しみを享受することが人間としての生を楽しむことにつながる。
→食事や人間関係、趣味、仕事まで、まずは存分に享受する。フルで楽しむ。
→逆に言えばこれらはどれも、あくまで退屈の合間に挟まる「気晴らし」でしかない。人間関係も仕事も重く考えすぎない。
その中で自分の環世界に不法侵入する、とりさらう、思考を止めないことが退屈からの脱却=何かに熱中することに繋がる。
ウサギ(結果)だけ求める、もしくは手に入っている状態は結局楽しくない。大事なのはウサギ狩り(過程)を楽しむこと。
結局その後また退屈に戻ることも悪くない。だってそれが人間の生だから。

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