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「プロレスファンは、推しが燃えるどころか堕ちるんですね。辛い」


書けなくなったライター・尾崎ムギ子氏は、編集者の妄執じみた執筆依頼に折れ、この連載を始めた。少しずつ、でも着実に歩みを進め、書く喜びを取り戻していく。新たな連載も決まり、期待に胸を高鳴らせていくなか、季節も春へと移りかわろうとしていた。そんな時、プロレス界にもさまざまな変化が訪れていてーー。プロレス往復書簡第6戦のゴングが鳴り響く!

前回のプロレス往復書簡

ムギ子さんへ

 ムギ子さんが書き始め、連載が決まり、新しい別の連載も動かし始めて、一安心。
ムギ子さんが楽しそうにされているので、ハッピーエンドめでたしめでたしな、なんかやりきった感があるのですが、恐ろしいことに、ここからが本当の勝負なんですね。

 思えばこの連載、企画段階も含めたら、既に半年ほど経過しています。とにかく突っ走ってきましたが、それができたのは酒のおかげかもしれない。酒があったから、私は動き回れたし、作家でもないのに立場をわきまえずに書くことができた。
 そんなふうに思って、悪堕ちしそうでした。しかし、よくよく考えてみると、今回私の筆が進まないのは、酒なんかのせいじゃないです。髪切りマッチについて書くのが、あまりにも、難しいからなのです。

 気を悪くしないでほしいな、と思いながら文章を書くのは、とてもしんどい。この文章は、ムギ子さん個人に宛てる体裁をとっていますが、読者をまなざしていて、その読者というのは、プロレスを好きな人たちです。しかし、編集者である私は、プロレスファンをコアターゲットに、プロレスファンでなくても読めるような普遍的な問題を扱うことで、多くの読者を獲得したいと思っております。目的地はまだまだ遠いぜ。
 
 直接的に語るのは野暮だけど、でも、伝えたいことがある。そんなときに、「敗者髪切りマッチ」が行われることになり、これは触れないわけにはいかないな、と思いました。さんざっぱら「女の幸せ」がどうのこうのと言ってきたこの連載で、この問題に触れないのは、とてつもなく間抜けですからね。

「令和の今に髪切りなんて!」というのが否定的な意見で、「本人が決めたことなんだからいいだろう、それだけのものをかけているんだ」というのが、肯定的な意見の大方だったでしょうか。否定的な意見は、「髪は女どころか男にとっても大切なのは自明であり、令和という新しい時代に『女にとって大切なもの』と古臭い価値づけをした上で、負けた者から奪い去る」という構図に対しての違和感をベースに、あらゆる方向での批判が出ていたという印象です。

 さて、結果はどうなったか。ここはスポーツ新聞ではないですが、便宜上、結果を詳報します。

 中野たむ選手が勝利。ジュリア選手は、中野選手に「髪切らなくてもいいよ」と声をかけられながらも、「恥かかせんなよ」と自ら椅子に座ってバリカンを中野選手に手渡し。泣き出す中野選手に「なんでお前が泣くんだよ」と。美容師さんに「かっこよくやってね」といい、その場で髪を刈られました。そして中野選手は「ずるいよ、似合ってんじゃん」と。観客の泣き笑いを誘いました。
 
 とにかくかっこよい結末でした。ライバルでありながら友情を感じさせる言葉のかけあい。見たくなかった残酷な結末を見ずに済んだという安堵。現時点で、ポリコレ的にも問題ないのかなという結末だったと思います。それについて、良い悪いは特に私は言えません。
 多かれ少なかれ「うわあプロレスってほんと野蛮。なんでそんなの見てるの?」的な烙印を押された経験があるプロレスファンにとっては、この結末は、とても安心感があったと思います。

 わたしは、プロレスは今後、ポリコレとどのように対峙していくのだろうと、いつも考えています。プロレスは、まごうことなき暴力表現ですから、見せ方によっては、特定の誰かを傷つけてしまうかもしれません。ポリコレって窮屈だなという思い、わからないわけではないですが、もう無視できる世の中ではないので、髪切りマッチがこのような結末を迎えたことは、とても時代を象徴するできごとだったんだろうなと、一プロレスファンとして、思ったのでした。

黒田


黒田さんへ


 中野たむ選手がジュリア選手に勝利した瞬間、わたしは隣にいる黒田さんのことが心配でなりませんでした。コロナ対策でひとつ席が空いていましたが、それでも明らかに黒田さんが「どうしよう……どうしよう……」とうろたえているのが伝わってくる。泣いているのかな? てか、わたしも泣いているけど。

 勝者である中野選手があんなにボロボロ泣いているのを見たら、泣いちゃいますよね。髪切りの儀式が始まる前、ジュリア選手もまた泣いていました。手で隠そうとしていたけれど、泣いていた。負けてしまったことが悔しいという単純な感情ではないですよね、きっと。いろいろな感情が入り混じっていたと思いますが、ふと一瞬、女の顔になったんです。「いまから髪切られるの怖いよ……」っていう、すごくリアルで、生々しい感情が見えた。ジュリア選手のあの表情はずっと忘れられない気がします。

 女子プロレスの魅力として、「女子のほうが感情が出やすい」ということがよく言われます。この日の髪切りマッチは、そんな女子プロレスの魅力が詰まっていたように思うんですよ。プロレスは「リアルじゃない」と言われたりするけれど、いやいや、こんなにリアルなスポーツってほかにないと思う。こんなにも選手の生き様や感情が試合に滲み出るスポーツは、ほかにない。

 以前、俳優の手塚とおるさんにインタビューしたとき、こんなことをおっしゃっていました。

「人は一生懸命、過剰に生きているんですよ。満員電車に乗っている人、一人一人の顔を見ていると、本当にイキイキとしている。みんな本当にイヤそうじゃないですか。本当に窮屈そうだしイヤそうだし、この世の終わりみたいな顔をしている。あの過剰さが僕は大好きだし、あれがリアルだと思っていて。芝居でも、ボソボソ喋ってあんまりリアクションしないのをリアルだとは思っていないんです。過剰に生きて、過剰にあがいている、というのを見せるのが、僕の中でリアリティーとして立ち上がってくる」

 髪切りマッチが終わったとき、黒田さんを横目で見たら、比喩ではなく頭を抱えて動けなくなっていました。それを見てわたしは、「なんて一生懸命、過剰に生きているんだろう!」と感動を覚えたんです。ここにもまた、ひとつのリアルがあると思いました。

 黒田さん、最近とても忙しそうで、大丈夫かなと心配しています。かくいうわたしも仕事を詰め込みすぎて、パンク寸前……。しんどいときは「いま頃、黒田さんも頑張っている!」と、なんとか自分を奮い立たせています。一緒に頑張りましょう。一生懸命、過剰に生きて、過剰にあがきましょう。わたしたちの勝負は、まだ始まったばかりです。

尾崎ムギ子


ムギ子さんへ


 自分ではうまく書けなかったのですが、ムギ子さんが書いてくださったとおりです。私は試合が始まった瞬間から、手を合わせて祈りながら見ていました。ものすごく感情を揺さぶられて、涙を流しました。前回の私の手紙では、冷静に感情を排除した上で社会状況に鑑みた分析を試みましたが、実際は本当にもう、完全に心持ってかれていました。いやはや、もう1週間前ですか。今も忘れられないです。もはや好敵手を通り越して、バディ感出てましたよね、中野選手とジュリア選手。見た目もキャラクターも全然違う2人が熱い言葉をかけあっているのが、たまらなかったあ! 好きだあ!!

 ところでムギ子さん。「悪」ってなんだと思いますか? 悪堕ちしそうになったことはありますか? 
 この間、全日本プロレスのジェイク・リー選手がヒール転向しました。辛すぎました。「推し、燃ゆ」が芥川賞をとりましたが、プロレスファンは、推しが燃えるどころか堕ちるんですね。辛い。ジェイク選手のヒール転向きっかけで、私は悪についてものすごく深く悩み思索しました。
 
 ジェイク選手は、書籍「最強レスラー数珠つなぎ」で知りました。私は大学時代に新潮45編集部で「原節子のすべて」というムックをつくるお手伝いのバイトをしました。せっかく編集の仕事の面白さを知ったにもかかわらず、愚かだったので出版業界には進まず、別の道に進みました。しかし後年、出版業界に未練が出てきてしまい、紆余曲折あって今ここにいます。そんな迷走期間があった私なので、ブランクを経て今があるジェイク選手に勝手にシンパシーを感じておりました。
 
 見た瞬間強そうな納得感があるのににじみ出てしまう良い人さがあって、そのせいで弱そうに見えちゃうみたいなところがあるじゃないですか、ジェイク選手。初めて見た時に、「なんだこの人! 素手でクマ倒せそう!(※クマをなめてはいけない)」と驚きました。コンプレックス抱かず生きていけそうなのに迷走したんですよね、この人。人間らしくていいな、ワシもがんばろと思わせてくれる選手です。

なのに!
何を悪堕ちしているのだぁあああああああああ(泣)

本当にショックでした。もうあの良い人すぎるニッコニコジェイクはいないんだ。失って初めて気が付く大切なもの。こんなの受け入れられない! 死なばもろとも! 私も悪堕ちしてやる! ……思い詰めました。私の職業でいうところの悪堕ちというのは、たとえば以下のような本をつくることです。

・大げさな表現・事実に基づいていない表現で、読者をだましたり搾取したりする
・差別を助長する

トンデモ健康本やヘイト本がそれにあたります。これらは人を傷つけます。悪です。人を傷つけるものはダメ、絶対!(……人が物理的に傷つけあう「プロレス」が好きなお前が何を言うかって話ですよね)

 プロレスは暴力で人を傷つけているところを見せると同時に、「困難な現実において他者との衝突は避けられないものだと受け入れ、なるたけ楽しく現実をサバイブしよう」という心意気をくれる、優しさあふれるものではないでしょうか。私たち人間は、物理的な暴力行為を働かなくとも、悪気があろうとなかろうとも、他者からダメージを受けることもあれば自分が他者にダメージを与えることがある。それを改めて思い出させてくれる。それがプロレスだと思って、私は観ています。

 先程挙げた、悪堕ちした本はとても無責任です。誰かを傷つける可能性があることに無頓着です。人の弱みや悪意につけこんで、露悪的な表現をこれでもかと詰め込み、お金を稼ぐ。それで組織の人間を食わせる。それで食ってしまった人間は、真正面からそれを批判しにくい(してもいいんですけどね)。こうした本はどんなことがあっても作ってはいけない。自分が作らなくても世の中にはそういった本があふれている。絶望。もしかしたら明日、編集部からそういった企画が出る可能性もあるかも。それは耐え難い。と、ここまで思いを巡らせたときに、あまりにも嫌すぎて悪堕ちなんてできないと思いました。

 ここで問題提起に戻りたいと思います。「悪」ってなんでしょうか。
 プロレスのヒール、すなわち悪役は、「本当の悪」ではないです。ヒールは、悪とは何かを定義して私たちに見せているものです。私たち観客が、身の回りにある現実の「本当の悪」と向き合えるように、悪ってこういうやつだよと教えてくれるものではないでしょうか。

 光があるから影がある。「The Dark Side of the Moon」です。さっきからド正論ばかり並べて悦に入っている私の編集者としてのキャリアのスタートが、差別表現により廃刊になった「新潮45」であることも、私が受け止めていくべき影なのです。

 ジェイク選手が悪堕ちして試合が終わって入場曲が流れたとき、これまで聞きなれた曲がヒールじみて聞こえました。数日はジェイク選手のヒール転向を受け入れられずにいました。でもある夜、風がびゅうびゅう吹いていました。風で安普請の自宅がガタガタと揺れるなか、PINK FLOYDの「吹けよ風、呼べよ嵐」を聴きました。私は、ヒールになったジェイク選手を応援することで現実の悪と闘っていこう。そう心に決めました。

黒田

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