2020-08-07

今日は無事書類を提出することができた。よかった。

薄明の翼の最終話を視聴した。前話まではあまり意識的に見てはいなかったが、今回の最終話で全話見ることを決めた。病弱な少年たちがポケモンバトルのヒーローに感化され、自分の運命を歩き出すというシナリオであった。Twitterでダンデvsキバナのシーンが流れてきたが、とてもアツい。アニメーションとして好きだったのは、ヌメルゴンの波乗りで流されるギルガルドである。流される瞬間はまるで無機物のように激流に身を任せているが、攻撃に身を転じる瞬間意思を持って動き始めるのである。ギガインパクトを放っているが、有機物になった瞬間の動きの緩急の表現は目を見張るものがあった。

今回のポケットモンスターソード・シールドは、ポケモンバトルの興行的側面が強く描かれている。運営サイドのエピソード、かつてないほどのジムリーダーへのフォーカスとタレント性、石炭で動く街の様子など、ポケモンバトルが娯楽に据えられた人の生活が映し出される。その中でハンデを抱えポケモンバトルを楽しめない少年二人を主人公にするのは、まさに大人向けだ。陰鬱な病院での生活が、ポケモンバトル、それを取り巻く人々、そして圧倒的ヒーローであるダンデによって彩られる。物語の最後で、少年は薄明の翼であこがれた空にはばたくのである。希望の物語であった。

やはり最近は、キャラクターのバックグラウンドを深ぼるコンテンツに目が行くようになった。シャニマス、宝石の国、薄明の翼などである。そのキャラが何を軸として考え、行動し、生きているのかをみんなで見守るという構造が多いと感じる。いかにエピソードの中で哲学を守った行動ができるか、どれだけ大きなことが起きればその哲学が揺らぐのか、これらが評価されている印象がある。シャニマスは、全体を通してキャラの哲学は変わらない。今の自意識を受け入れる構造が多い。成長が形骸的に奨励される中で、あえてキャラクターの欠点ともなりうる自我を保たせるのである。薄明の翼ではダンデという不変のスーパースターに象徴される。「俺は誰が相手でも手を抜かない」というセリフに顕著に表れている。ダンデのポケモンバトルに対する哲学である。この二作品においては、結果的に強いキャラクターが社会的に成功する。シャニマスが成長という名の人格淘汰を行わずに済む理由はやはり他者からの支持なのだろう。ゲーム内での成功や人気が、キャラクターの哲学に説得力を持たせるのである。

宝石の国は、逆である。フォスの正義の行動が、あとから社会的に批判される構造を取るのである。読者はフォスフォフィライトの視点で物語を読み進めるから、他の宝石たちがどう感じているのかわからない。特に10巻でのカンゴームによる裏切りはかなり読者を驚かせるものであったろう。読者はそこでやっとカンゴームの思いに気づくのである。いや、自分たちがカンゴームに甘えていたことに気づくのだ。このように宝石の国は、読者の弱さを誘い、それを裏切ってくる。描写はされないが、宝石の感情を汲んでいかなければならない。それに疲れ果てたときに、金剛を頼るほかなくなるのである。ユークレースなどは敏感に察知できているのだろうが、これが読者そしてフォスと対比されているのである。その結果、月サイドと地球サイドでの対立が生まれ、宝石たちの戦いやコミュニケーションを含んだ物語が進行するのである。市川春子さんはポケモンのキャラデザに参加されているが、元々つながりがあったのだろうか。気になる部分である。ローズ、お腹が出ていて、ちょっとダサいなと思った。もとからそこが愛嬌として成り立つキャラだったのか?