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ゲンロン戦記とみんちゃれ・・・誤配の幸せ

 最新刊『ゲンロン戦記』で、東浩紀さんはこう書いている。

「ぼくはよくコミュニケーションでは「誤配」が大事だ、ということを言います。自分のメッセージが本来は伝わるべきでないひとにまちがって伝わってしまうこと、ほんとうなら知らないでもよかったことをたまたま知ってしまうこと。そういう「事故」は現代ではリスクやノイズと捉えられがちですが、ぼくは逆の考えかたをします。そのような事故=誤配こそがイノベーションやクリエーションの源だと思うのです。」

 ふと思い立って、「みんちゃれ」を始めてみた。「みんちゃれ」とは『見ず知らずの人達が五人集まりチームで励まし合って三日坊主を克服するアプリ』だ。つまりノイズを排除した「オンラインコミュニケーションアプリ」である。

私が入ったチームも最初は五人いて毎日自分が設定した課題の進捗を報告しあっていた。そのうち、報告をしなくなる人が出てくる。リーダーが最初に設定した締め切り日数を超えて報告しないとメンバーから外される。機械的にさらりと行われるし、ニックネームと自分が許可した情報だけしか知らない同志なので後腐れはなさそうだ。「課題を達成したから抜ける」と断りをいれる参加者もいる。

そうして、とうとうリーダーと私の二人になった。リーダーは学生さんのようだ。リーダーからの報告は、自分で立てたミッションの進捗と今日一日を過ごすための前向きなコメントが短く添えられている。それが淡々と1日も欠かさず続く。私はといえば、それに倣うことで課題への取り組みが続けられている。参加者がいた頃には、課題と離れた気分がどうだとかいった度々挟まれるメッセージにさへも、リーダーは付かず離れずちょうどいいコメントで返しそつが無い。自分の学生時代を思うと、信じられないくらい彼女は「大人」だ。

 ある時、文面から4月から就職するらしいことがわかった。私ははなむけの言葉を考えた。

「2030 未来への分岐点」という番組を観た直後だった。番組は、私たちの経済格差を容認する暮らし方が「飢餓と飽食」の矛盾した現実を併存させ、それは人道的問題を超えて地球環境のバランスを壊し、人類全体の存続か滅亡かまさに「未来への分岐点」にまでさしかかっているという内容。
私は、二人だけになってしまった「みんちゃれ」で、就職目前のその人にこう書いた。

「先日『2030年未来への分岐点』というテレビ番組を観ました。このような未来を次世代に手渡してしまう世代の一人として、心痛めながら観ました。そんな大人たちの作った社会です。大人の説教など、はいはい、と聞き流しながら、美しい未来を見据えて同世代の人たちと切り開いてくださいね。私も私の持ち場で、そういう若者たちと出会うことに希望を持ちながら、地味な日常を精一杯生きています。頑張って。」と書いた。前向きで真面目そうな学生さんに、「折れないでね」という気持ちもあって、思わず書いてしまったのだ。お節介なことだ。

その学生さんからの返事はこうだ。(内容はほぼ同じだが文体は書き換えている)「世の中には素敵な大人がいる。(あなたもそうだとも書き添えてある)そういう大人とも同世代とも繋がっていきたい。」

恥ずかしながら、気がついた。確かに、「世代間を分断」しても解決の糸口は見つからない。人と人とが繋がることで良き未来が実現するのだ。どんな人とどんなふうに繋がるか、が大事なのに、私は世代という雑な一括りで書いた。

それからしばらく二人だけのグループが続き、課題の進捗報告以外のやり取りがあった。私はその時、先に引用した東浩紀さんが使う「誤配」という言葉を思い出していた。

「みんちゃれ」での私たちのやりとりもまた、「誤配」とは言えないか。イノベーションやクリエーションの源だなどとはもちろん言えないささやかなものだとしても、東浩紀さんがいう「回遊して回るシラス」の一現象だろう。学生さんと私の心を耕してくれた、お互いに幸せな時間だったことは確かだ。

 東浩紀さんが「リスクやノイズと捉えられるコミュニケーション」を「誤配」と名付けた。そして、彼の預かり知らぬところで、そんな小さな誤配や関わり合いの現場が意識化される。私は評論とか批評とか客観的な文章は書けない。作法も知らない。あるのは体験と実感だ。

その地平から言うと、「誤配」という定義が生まれたことによって、人が育つ場が増えたのではないか、言い方を変えれば、肯定される場が増えたのではないか。と思う。

もちろん「みんちゃれ」は、そこ止まりの仕組みだ。そういう役割のものなのだから。私が入っているグループは現在、定員である五人となり、新しい雰囲気で進捗報告が続いている。この先誤配が生まれるかもしれないし、それぞれの目標達成のために淡々と報告が続くかもしれない。

東浩紀さんはこうも書いている。「(オフラインの分厚いコミュニティをよしとしつつ、むしろ現実には、株式会社ゲンロンは、ビジネスとしては圧倒的にオンラインに頼っている)・・・そこがゲンロンが誤解を受けやすいところなのかもしれません。ではそのふたつの態度はどうつながるのか。ぼくはじつは、大事なのは、オンラインの誤配なきコミュニケーションを、どうやって効果的に「オフラインへの入り口」=「誤配の入り口」に変貌させていくかという問題意識だと考えているのです。」

このチャレンジこそ、20世紀に語られていたインターネットが世界を繋げるという牧歌的な夢が今はもう破れてしまい、むしろ「仲間内を強固にし分断を生み出すSNSとともに生きる社会」である。オンラインが誤配の入口に変貌していくプロセスを私は見届けたい。

今、私が一番やりたい誤配は、ゲンロンの現場へのお弁当の誤配。本を読む時、食べ物の箇所があるとその人の生活を垣間見た気分になる。「食」が本題でなくても、意外に「食べ物」の記述ってあるものだ。

「ゲンロン戦記」の「食の記述」は記憶の限りでは、情報発信プラットフォームとして開設した「シラス」を記念した「しらす丼」(コロナ禍の中で実現せず)と、経営悪化の中で縮小していったカフェ部門の「ゲンロンという焼印の入ったホットドッグ」。娘さんが好きだそうで、これだけは復活させたいとあった。

丼とパンかあ。どちらも美味しそう。だけど今私が届けたいのはあれこれおかずの入ったお弁当。だって、ゲンロンの皆さん、これからの10年の資本は体でしょう。ゲンロン株式会社が社食を作るんだったら、調理人として手をあげたい。

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