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手書きと活字

*こちらの記事は、以前はてなブログさんに掲載したものの再掲(一部改訂)です。

2020年春、自粛生活が始まってから生活パターンが変わった。完全にテレワークとなり、買い物や所用、近所のカフェでの息抜き以外は家に居る日々。ここまで長時間在宅することは一時的に仕事を辞めていた時期以外になかったので始めは戸惑ったが、とりあえず忙しさにかまけて先延ばしにしていた家の片付けをして、まずは快適さを取り戻した。もう一つ余裕が無く出来ていなかったことは、手書きツールでの友人への連絡。基本はLINEでこまめに連絡を取れているけれど、スマホを持たない、または最低限しか使わない、LINEはしない、という友人への連絡手段としてアナログツールが必要になる。

コンピューターがパーソナルなものでなく、携帯もまだ無かった頃に学生時代を過ごしていた世代ゆえ、学生時代の友人とは随分と手書きでの遣り取りをした。何かというと手紙を書いていたし(便箋とかルーズリーフに書いた手紙の可愛い折り方が流行った)例えば卒業や転校で離れ離れになると必ず「手紙書くからね」という流れになっていた。基本的に手紙類は取っておく方だったので、なかなか膨大な数になっている。逆に皆が携帯を持つようになった時、メールでの遣り取りにちょっと不思議な感覚を持った。いつでもすぐに連絡が取れるのは便利だし、こまめに連絡を取るようになったから距離感は近くなった筈だけど、変な話ちょっと寂しいような拍子抜けした思いもある。筆跡も熟知している同士が液晶の上の活字と絵文字でコミュニケーションを取るのは、慣れるまで少々の照れ臭さみたいなものもあった気がする。

少し前に断捨離をして、手紙の束を整理した。もともと交流が浅く現在お付き合いのない方からの年賀状や、互いに(元)彼の愚痴を書きまくったり、当時なりに重い悩みを綴った学生時代の手紙などはもう役目を終えたものなのでそっと心の中でお焚き上げをするように処分。現在もお付き合いの続く友人からの手紙や年賀状は時系列に見ていると、彼女らと自分の人生が同時に浮かび上がってくるようで、ついつい片付けの手が止まってしまう。

かつて毎日のようにポストを覗いてみたり、ポストに落ちる「パサッ」という音に素早く反応して玄関に駆け付けたり、自分宛の手紙じゃないことにがっかりしたり。その感覚は今では大方失ってしまった。手紙を投函して2~3日経てば、相手はそれを読んだだろうか、どう思っただろうかなんて気になって、返事が来るまでドキドキしたものだけれど、今ではLINEで既読が付くことでそのタイムラグは大きく省かれている。とはいえ返事を待つ気持ちはほんの数分間だとしてもちゃんと味わえるし、リアルタイムで来る分良い意味で生々しいのではないかとも思う。そう思えば「手紙の返事が来ない」ことは今でいう「既読スルー」と同じなのかも知れない。返事が来なくてヤキモキしたり或いは密かに心痛めていたりした記憶を追体験するようだともいえるけれど、今となっては返信が来ないことで悲しむような相手はいないし「忙しいんだな」「元気でいればそれでOK」と思える程になってきた(自分の筆不精を棚に上げつつ)。むしろ既読にならないと「何かあったのでは……」と心配をしてしまうということはあるが。

一時はあまりに手書きの文化から離れすぎて、漢字を書けなくなることや字が下手になることへの不安があった。ここでもう一度手書きに触れてみると懐かしくも安らかな思いに気付いている。偶然かも知れないが、普段LINEのみで遣り取りする友人からも不意に手紙が届いて嬉しくなった。

メールの文面は味気ない、と今でも言う人がいるだろうか。確かに筆跡は一人ひとり違うものだし人となりが読み取れるものだけれど、メールやLINEにもそれぞれ癖があって面白いと思う。ご本人のイメージにギャップを感じるほど絵文字を多用していたり、普段は理路整然と話す人が可愛いメールを送って寄越したり、絵文字やスタンプは一切使用しない主義の人がいたりと、なかなかユニークだ。手書きも良い、活字も良い、それぞれの良いとこ取りが出来るいい時代になったものだと思う。


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