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誤読のフランク 第11回目 ヨム・キプルと独立記念日 そして、トローリーと雑踏。

ヨム・キプル イーストリバー、NYC

ヨム・キプルとは、ユダヤ教の贖罪の日というお祭り。ユダヤ教徒は、この日、飲食、入浴、化粧など、全ての労働を禁じられている。
この当時はどうだったんだろ。今のように遊覧フェリーが運行してたのかな? 河畔ではなく、人の混み具合からこれは遊覧船じゃないかなと思う。遊覧船の方が物語がある。働いちゃいけないのなら、今日は遊ぶとばかりに、遊覧船。団体のそこに紛れ込んてしまった他教徒の男とフランク。

ロバートフランクもスイス生まれのユダヤ人だけど、現地の人たちと交流を持っていたのかどうか。

あー、またこの位置にコートの色が違う男だ。街の偉いさん達の写真でも真ん中より少し右。
このページで風があるように感じるのは、僕らが川を歩いた時に感じる記憶を呼び起こすためか。それとも、前のページにこの写真と同じライン上、反対方向の想定線があるからなのか。左上から右下へ流れる風か、右下から左上へ駆け抜ける風か。
イーストリバーの船の上、向かって左から右側へと強い風が吹いているように感じる。重たい/軽い。見ようによっては逆か。黒の重たさと白の軽やかさの対比と、斜めのラインで風が生まれる。
そう感じられるように、白と黒の比率が前の写真と画面上で対比させられているのではないかなどと勘ぐってしまう。映像的な計算。

映画の理論にイマジナリーラインという言葉がある。映画のシーンで、人物の行動がカット割りによって矛盾を発生させないための技術で、カメラの向きを決定させるための想定線のこと。詳しくは検索。

この写真も前の写真とこのイマジナリーラインを想起するように作られているように見える。と、思う。考えてみれば、いままで対比の構成で並べられている写真は、このイマジナリーラインを上手く使っているのかも知れない。

そうか。あともうひとつ。前の何枚かの写真は日常の光景だった。パレードのイメージのある非日常「ハレ」の写真と日常の「ケ」の写真。ロバートフランクは日本のハレとケの概念は知らなかっただろうけど、このハレとケの写真を交互に入れて緩急を付けているのかも知れない。

もちろんこれは「ハレ」。次もハレが続きます。

※ガバナーズ島や自由の女神へのボートが出てるね。


独立記念日 Fourth of July  Jay, NY

写真の構図等から攻めてみると、国旗のシマシマと手前の少年のシマシマが呼応している。縦横だけど。そして、風の写真の次に旗。国旗が3枚目。旗の下の白い服の少女たちも画面の中でいいポイントを作り出している。奥行ありながら、旗がすけているので薄いレイヤーとなって空間を分断しながら続けている。手前の人たちの位置も抜ける空間を潰して、一定の距離を作り出すことに成功している。

そういえば、『7月4日に生まれて』Born on the Fourth of Julyって映画あったなーなんて。これは、地元のイベントかな? 子供たちが風船のようなものを持っているし、奥には何台も車が見える。
こっちに向かってくる女性たちも見えるが、またしても(というか、カメラの位置的に)、このイベントの中心はカメラの後ろ。ロバートフランクの背中の方だ。もちろん国旗の正反を重視したのかもしれないが、また写真の中心を背後に置いて撮られたものである。

表紙のバスを思い出してもいい。壇上のスピーチでもいい。人々が求めるものを背後にして写真を撮れば、人々の顔が写る。まさにそんな感じ。
アメリカ人とはなにか?ということは、人々の欲望だったりワクワクするものだったり、願望だったり、なんて思ったりする。

そして、この写真が続く。


トローリー ニューオリンズ

これはこの文章の最初に書いた。どこか不穏な空気を持った写真。
やはりこれも彼らが見ているものを背後に撮影しているワケで、それがなんなのかはっきりと示さないことによって、成立している。

表紙のところで語り逃したけど、今になって見返して見ると、もしかすると窓の反射の部分、別の写真をはめ込んたのか?
今で言うハメコミ合成なのかな? なんて思えてくる。
多分ネガが出てきてネガも研究資料として使われている現代なら、合成だよっていう話は出てきてないなら合成では無さそうだけどね。良くバラけた反射になったものだ。

旗の白いラインが窓枠の細いラインに繋がっているのかも知れない。それによって横のラインの写真に縦の垂直なラインが重なり、印象が変わってくる。

うわー、やっぱりこの並び、すごい。


カナルストリート ニューオリンズ

これ上手いのは、この並びだと、トローリーから見ているのは街のごった返す人々という印象が強くなる。
構図的にも反対に見えるし、横3分割の画面は連続性を持って迫ってくるし、旗のページの縦ラインがトローリーで回収され、フレームインフレームから横の画面に一気に置き換わる並びに、憎いね、なんて言ってしまいそうになる。

人種、年齢がバラバラ。今までのいくつかのイメージが重なって、多様性と欲望のごった煮のような印象を受ける。

人々はそれぞれ1列になって奥から
○○○



の並びでそれぞれの方向を歩いていたり、ショーウィンドウに向かっていたりする。それこそ、アメリカ人とは何か、という問いに対する象徴的な、この雑多な個別性とそれぞれ別の道をゆくというある種の想像性をもつ国民性を、この写真が端的に表しているのかも知れない。そして、今まさに、この問いこそがこの写真集の突き進んでゆく人々の中なのだ、とでもいいたげな、なんとなくこのシークエンスの終わりなのかなという、気分がする。

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