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誤読のソス試論

アレック・ソスがよく分からなかった。
どうもロバート・フランクの写真上の後継者みたいな感じがしてて、気になってた。もちろん有名な写真は見たことあるし、写真集も見たことがあった。10年前くらいに3331 Arts Chiyoda(アーツ千代田)でやった講演会も聞きに行った。それでも、見てたつもりだったけど、やはりよく分からなかった。でも、いずれ登らなければならない山のように感じていた。なんか漠然としてるんだよね、なんて友人と話してた。
ところが、2022年夏、神奈川近代美術館 葉山館で、開催されていた『アレック・ソス Gathered Leaves』という展示を見て、目からウロコが落ちるような体験をした。非常にわかりやすい展示で、彼が写真や写真集に対してどのように展開していったかまでも端的に表現していて、非常に興奮して会場をあとにした。
というわけで私的で思い入れいっぱいの葉山館版『誤読のソス』論を書いてみたいと思った。

まず葉山館のHPの展示の企画概要を目印のために、最初に置いておく。
〈アメリカの現代写真を牽引するアレック・ソス。ミネソタ州ミネアポリスを拠点に、緻密なコンセプトに基づいたプロジェクトとして国内外への旅を重ね、自然や人々をとらえたソスの作品は、ドキュメンタリー写真の手法を継承しながらも独自の詩的な静謐さを湛え、国際的に高い評価を得てきました。
 ウォルト・ホイットマン(1819-1892)の詩集『草の葉(Leaves of Grass)』(初版1855年)の一節からタイトルを採り、アメリカを題材とする5つのシリーズ〈Sleeping by the Mississippi〉、〈NIAGARA〉、〈Broken Manual〉、〈Songbook〉、そして最新作〈A Pound of Pictures〉で構成される本展では、約80点を紹介し、イメージとコンセプトの連関をそれぞれの光景に探ります。日本の美術館で初となる待望の個展です。〉

さて、展示は〈Sleeping by the Mississippi〉、〈NIAGARA〉、〈Broken Manual〉、〈Songbook〉、〈A Pound of Pictures〉とそれぞれ別の部屋に収められ、展示構成もそれぞれの部屋で違っていた。最後の部屋に〈Broken Manual〉を作成中の様子が描かれた『Somewhere To Disappear』という映像作品(ドキュメンタリー)が流されている構成がなされていた。制作された順番にみてゆく構成。

最初の部屋は〈Sleeping by the Mississippi〉の展示。はじめの3枚は写真集と同じ並び。飛行機の玩具を持った奇妙な男。川沿いに建てられた浮舟の家。そして、ガソリンスタンドと墓の写真。
この有名な写真たち。
「意識の流れ」とか「物語性」と呼ばれる情報だけ持っていたので、これらの写真を眺めてみて。、うーん、やっぱり「わっからないなぁ」なんて思うのも当然。僕らはその文化的共有性を日常の生活に持っていない。一枚一枚の写真の中に何をみてゆくかという点で、それぞれの写真が点と点で線が見つからないと感じてしまう。たぶんそれがソスのわかりづらさでもあると思ってて、そのとき、ふと思ったのは一歩「何を言いたいのか」という(日本の国語教育的な視線)から離れて、つぶさに何が写っているのかという点を追いかけてみるという点から見てみようと思ったのだった(『誤読のフランク』のスタイル)。

本題から直接はいる。よくよく見ると、写真集から抜粋されて並べられた展示の写真には「神」の話がよく出てくるのに気付く。キリスト教の神。どれもこれも「神様」の話が出てくる。ええっ!(Oh my God!)と改めて驚き、こんなに神ネタ多かったのだっけと、いままでに見たことがある写真でも全然違った風に見えてきたのにとても興奮した。
オレンジ色のパーカー姿の女のコのTシャツに「神はどこにでもいる」みたいなことが書かれていたり、牧師、聖書、「神の子の家」とキャプションがつけられた写真(写真集ではたしか場所の名前だたはず)、同じように「天使の写真を撮影した女性」(写真集ではたしか名前だけ)とか、巨大な十字架の前で並ぶ労働者たち(手にしているのが農機具だが、銃を担いだ兵士のようにも見える)、壁に貼られたマーチン・ルーサー・キング牧師の写真。監獄の若者の着ている服の首元には「ママと牧師」みたいに書かれているし、最初の有名な写真でさえも、手にした飛行機は十字架にも見えなくもないし、夕闇に落ちそうガソリンスタンドも奥の林の中に墓が数多く見える。祭壇にも見えるギラギラ飾ったベッドルーム。
その間にイコンとしての落描きの神の首が時々転がって(挟み込まれて)いる。首のない体だけの落書きもいる。落書きに意味を発見してしまうのは神の偏在の証拠でもあるし(ユビキタス)、言ってみれば写真行為はその偏在を集めることでもある。キリスト教的にいえば、聖骸布の顔だ。

説明が必要なのもある。ジョニー・キャッシュの生家と、展示の最後バトンルージュの川岸の写真。
ジョニー・キャッシュは、カントリーミュージックの大御所になったけど、生まれは貧しく幼少の頃、兄と一緒に家の手伝いをしていたときに事故で農業機械に兄が挟まれて砕け死ぬ様子を目の当たりに見ていた。カントリーだけでなく敬虔なクリスチャンでゴスペルもやっていた。
バトンルージュの写真は、ロバート・フランクのバトンルージュの黒人の牧師が河川敷で十字架を持っている写真の、あの牧師が見ていた風景である(ソスは相当な『アメリカンズ』マニアに違いない。『誤読のフランク』で場所を調べた)。いま、その現場には立派な桟橋がある。写真が撮られた当時は鉄骨の桟橋はなく、近年大きく無骨な桟橋ができて風景はソスの写真からもかわってしまったが、これも、ロバート・フランクの写真を通して神の話に通じている。
という風に追いかけてゆくと、この葉山館の〈Sleeping by the Mississippi〉の展示は「神」と「神の不在」を中心にまとめたものとして見える。そしてこの写真群の大きな主題のひとつであるとも読める。

足のない男。一人ぼっちのバースデーパーティーin 赤い部屋(のようにも見える)、空っぽのベッド。「かつてそこに(なにかが)あった」ことを想起させるような空き地。囚人労働と権力性。これらの写真が全体として、神の存在と世界に空いた大きな穴のような「神の不在」を表示してるのではないか。
ソスってこんなにクリスティアニティが強い作家だったのかと改めて考えてしまう。

もちろん、宗教的な問題は常に国家の形成と蜜月であると言っても良い。今、2022年後半の日本でも宗教と政治の近接性が大きく取り扱われているが、アメリカは常にこの問題は大きく取り扱われている。
そもそもの建国からして宗教戦争の結果だと言われている。
<アメリカは世界のキリスト教国の中でもとりわけ信仰心の篤い国とされ、宗教が今なお市民生活や政治に大きな役割を果している。1620年にボストンの南にあるプリマスにメイフラワー号に乗って到着したピルグリム・ファーザーズは、イギリス国教会に反対して、新天地を新大陸に求めざるを得なかった会衆派(組合派 Congregational churches)の人々であり、その意味ではイギリスにおける「宗教戦争」の「敗者」であった。そうした歴史的経緯から、合衆国憲法では、「宗教的寛容」の精神を修正第1条「国教樹立禁止」条項で表明し、移民国家アメリカを支える基本原理となっているが、アメリカ国家建設過程で、先住民の信仰が抑圧されたことに始まり、新移民の流入とカトリック差別、反ユダヤ主義から最近のイスラム教徒に対する反発など、常に宗教対立を抱えてきた。(「2002/12/12 アメリカ社会概論 9.多宗教・多宗派社会アメリカの現状と問題点」http://web.cla.kobe-u.ac.jp/staff/yasuoka/niftypage/amesha20021212.bak)>

更に過去の歴史を見ても、政治は常に宗教に接続していて支配と抑圧(そして戦争や虐殺)を生んでいた。だから、近代国家は「政教分離」という概念を導入し、政治と宗教の距離をとることが必須になった。
だが、現在、世界は大きな揺り戻しに見舞われているという人もいる。

アメリカの今現在進行系の問題としては、キリスト教原理主義者の運動について忘れてはいけない。
アメリカの人口の25%がいわゆる福音派と呼ばれる原理主義を信じているという調べもある。ここ数ヶ月ではの大きな動きとしては、人工中絶が多くの州によって違法とされ、大きな抗議行動となった。ちょっと前にはダーウィンの進化論が否定されて、科学よりも神が世界を作ったということが正々堂々と信じられるようになったとか(インテリジェントデザイン)。10年ほど前には、クリスチャンロックのライブとともに大規模な宗教集会(メガチャーチ)があちこちで開かれ巨大な(音楽も含めた)市場を形成したことが話題になった。それがチャートの上位を占めたり政治右派とつながりトランプ大統領の登場を生む土壌となったり、銃規制反対の退役軍人とムーニーズの一派が結束しており、未だあちこちで乱射事件が起こるも、銃規制に積極的に動けない状況が報道されている(Amazone Prime Videoでドキュメンタリーとなってる「カルト集団と過激な信仰 世界平和統一聖殿」)。報道によると、この銃推進派はトランプ支持者の2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件にも大きく関与しているらしい。

〈アメリカのキリスト教原理主義の主張は、非常にわかりやすい。反同性愛、反中絶、反進化論、天動説支持、反共主義、反イスラーム主義、反フェミニズム、人種差別、ポルノ反対、性教育反対、地球平面説支持、エクソシズム信仰、神秘主義傾倒、家庭重視、小さな政府、共和党支持などが主な主張である。信者は南部、中西部で特に多い。テレビ伝道師やメガ・チャーチで説教し、多額の寄付を集める牧師も存在する。原理主義者は、公立学校における進化の代わりに、創造主義を基盤とする仮説であるインテリジェントデザインを教えようと試みてきた。(wiki)〉

たとえば、人工中絶禁止が決まった州では、強姦や近親相姦による妊娠を含む、すべての中絶を禁止、堕胎のために可能な州へ旅ができるのは裕福な人々で、貧困層(の多くは黒人も含めたマイノリティ)は、中絶禁止されている州からは旅する金がないので、州から出られない。彼らは同性愛も認めないので、LGBTQが戦ってるのもこの人達だし、有色人種差別も根深い。
貧困層の多い有色人種に対して不利な法律が堂々とまかり通っていて有色人種が囚人労働という名目で強制労働をさせられていたり(Netflex 『The 13-修正憲法13条』)、社会の中に想像するよりもっと多くの階層差別が行われている実態がある。
かつては単純な差別主義者としてWASP(White Anglo-Saxon Protestants、白人のアメリカ人プロテスタント、白人エリート支配層の保守派を指す造語。)という存在として見られていたが、そのWASPと原理主義の重なり合ったところにアメリカ保守政治(社会)が存在しているといって良いかもしれない。

ソスが参照(マニュアル)としたと思われるロバート・フランクの『アメリカンズ』でも黒人問題だけではなく、実は宗教の話を想起するものは多い。
黒人教会(バプティズム派)、ユダヤ教、エホバの証人、オーラル・ロバーツ、黒人司祭、聖フランシス、十字架に神の恩寵の光、トイレの靴磨き(洗足式)、中国人の墓、ショッピングセンターの安売り十字架、車の「神は死んだ」「神は罪人を救い給う」というステッカー、あちこちに宗教、そして神を想起させる構造がある。

だが、『アメリカンズ』の時代と現代と違うのは、原理主義が力を持ちすぎた結果、新保守主義と言われる原理主義と保守の混合集団に政治が乗っ取られてしまうという自体になっている。これは『アメリカンズ』の時代とは全く違う。ソスが敬虔な宗教家であるかは知らないが、考えているよりずっと宗教は社会に身近である。

ではソスは宗教の広がりだけを描いたのであろうか?

それは多分違うと思う。
IMAのインタビューで〈トランプ政権下のアメリカを撮りたいと思えず〉(「歩みを止めず、高みを目指し続ける写真家の現在地」
https://imaonline.jp/articles/interview
/20220930alec-soth/)と語っているので、ソス自身はこの原理主義にどっぷり染まっているということではなさそうだ(原理主義者はトランプのサポーターだ)。むしろ、〈Broken Manual〉の提示の仕方を見るになにかに依存した状態でどちらかの側について語るということもないだろう(正当なものづくりを目指すならその部分は譲り渡すということは作家の死を意味するのではないか)。

<物語には『始まり』と『途中』と『終わり』がありますが、写真はそうはいかない><作り手はどのように点を配置するかが重要になり、点と点が近すぎると作品は単純で退屈になり、遠すぎれば作品としてのまとまりを欠いてしまう。鑑賞者が点を結んで独自の物語を作れるよう、十分な余白を与えることが望ましい。写真以外の文字やタイトルなどの要素は、点を結ぶ行為をサポートするためにあります。過去の作品は、それぞれが異なった点の配列で出来上がっていて、『Sleeping by the Mississippi』では川が点を結ぶためのガイドとなり>とインタビューにある。
アメリカ南部はいわゆるバイブル・ベルトと言われている。聖書の帯。
経験なクリスチャンが多く、都市部に比べて比較的に貧しい地域でもある。
これは実はミシシッピ川領域とかなり重なる部分があり、ミシシッピ川はニューオリンズとミネアポリスを結んでアメリカを左右に分断もしている。また、それは南北戦争時代の南軍の地域とも重なる。そのバイブル・ベルトに点を打っていき、旅するイメージは、『Sleeping by the Mississippi』というタイトルに昇華されており、つまり、その宗教的土壌の上を流れるミシシッピ川、その流域に点をおいてゆく、その地域全体をどのようにイメージしてゆくか、単に旅するだけではなく、社会がどのように構成されており、どのような風景がそこに存在しているかということは、<ドキュメンタリー写真の手法を継承しながら(企画概要)>イメージを構成してゆくソス独自の作品に対するアプローチなのだ。

この事物をそのまま描くのではなく、一旦詩的抽象性をあげる提示の仕方は、ソスの作品のわかりづらさを担保もしているし、他にない存在として、写真の文学性を齎してもいる。

最後になったが、撮影法についての話は重要だから書いておく。
ソスが撮影法を語っている記事がある(たしか3331のトークでも同じようなことを話していた)。作品を制作する過程において、小説家や詩人のようなスタイルで作品を制作するという。
<「Stream of Consciousness(意識の流れ)」の概念を撮影プロセスに取り込んでいった。「何を撮るべきか一日中空想をめぐらせ、眠る前まで必死になって考え込んでいると、急に夜中の2時にアイデアがひらめいて目が覚め、その時に思いついたことをメモに書き留めることがあります。頭の後ろ側で常に何かが働いているような感覚があって、それを『意識の流れ』と呼べるのではないかと思っています。理論的に考えることをやめた途端、それまで考えていた物事の断片が結び付くという理論があって、確かに『意識の流れ』を取り入れたモードのまま撮影を行うと、それまで考えていたことが自然と視覚的に結びつくことがあるのです」。>https://imaonline.jp/articles/archive/20201218alec-soth

川の側の空き地のような空白の中にソスの詩的な/私的な視点を見出すのは難しくない。
そして、ここでたどり着く、重要な視線は、最初の飛行機のイメージだ。飛行機を持った男、そしてリンドバークのベッド。
ミシシッピ流域という地上(それも湿地帯も多い)に住むことに対しての、飛行、空をかける高みに登る、遠くへ行くというイメージは、一枚一枚の写真に対する個別のドキュメントではなく場所や一言のキャプションとして、写真を独立させていることもあり、地上に縛られている人々の姿を俯瞰的にしている。
ジョニー・キャッシュの生家もそうだ。ここから音楽世界のトップにまで飛んでいった男の物語はミシシッピ川の地上から離れてゆくイメージをもたらす。
その俯瞰的な視点は、地上を這うようにアメリカ中を走り回ったソス自身の行為でさえも俯瞰しており、より多様的で文学的な美しさを写真群に与えているのではないだろうか。

さて、次は〈NIAGARA〉といきたいところだが、ミシシッピで潜りすぎた。以降は簡単に流れを書いておく。

これは写真集の表紙に描かれているように、「愛」がテーマの一つであるだろうし、それは〈Sleeping by the Mississippi〉の「神の愛」をもっと人間の世界に引き寄せて描こうとしているとも読める。それと、暗い雰囲気は、ナイアガラの滝はハネムーンの行き先として有名であるのと同時に、自殺の名所でもあることだからだし。イメージとしては世界の果てだ。この世とあの世を結ぶ地点。そこに集う人々だから、単なる観光地の物語ではない。
そして〈NIAGARA〉に対する〈Songbook〉は愛の行き着くところではなく愛の出発点とも読める。1930年代にあちこちを彷徨い音楽を収集していった Alan Lomaxのように、記事を書くライターと共に、開けた、失われてしまってゆく社会習俗に対して取材してゆく外的な面が現れた作品。失われてゆくことの中に一縷の光を描くことが浮かび上がり、写真集の裏ジャケットの『Dancing in the dark』が象徴的。
〈Broken Manual〉は、〈Sleeping by the Mississippi〉の浮舟の家に住む人の話とか、家族を捨ててひとりで住んでいる人の話であるとも言える。ミシシッピ的な愛情(宗教的? 神の愛?)に対して距離を置く人々を描いているとも読める。これは葉山館で流されていたドキュメンタリー映画(Alec Soth『Somewhere To Disappear』(2010))でも描かれていたが、社会の(キリスト的な観点に支配された)システムに対しての抵抗している人々の物語でもある。
〈A Pound of Pictures〉は〈Sleeping by the Mississippi〉の壁に貼られた写真たち(ミシシッピの写真集の表紙も貼られた写真を取り去った跡)や落書きイコンのイメージを、偶然ではなく必然として拾い集めてゆく行為でもあったように見えた。この匿名のイメージを拾い集めてゆくという行為は〈Sleeping by the Mississippi〉へとつながる、という構成だった。
最後に『Gathered Leaves』というタイトルは、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉(Leaves of Grass)』から取られたという説明の通り、ホイットマンは『草の葉』を何度も何度も書き直しており、その視点からアレック・ソスの写真に対する思考が読み取れる。
その時代、時代ごとに良い写真の解釈は蘇るもので、常に前作やそれぞれのイメージが反復し往復の視線によって、重層的なイメージを生み出している。
また、この展示と共に発売されている『Gathered Leaves』という新聞紙に印刷された5冊の写真集をまとめた写真集は、その個別の読みや説明を加えて編集されており、元の写真集に対しての追加のコメントや経緯などが付け加えられた(打ち出した紙に貼られたり、ボールペンで走り書かれたメモとして)何度も何度も見返すことができる書物となっている。写真は写真だけではなくその編集も含めて連関してゆくということの良い見本であり、資料にもなっていることを記して、この項を終わりにしたい。
(202209)


補記として

イメージの類似性の例

南北戦争時の従軍した人たちの写真

ソスのバトンルージュとフランクのバトンルージュ。
この項のきっかけになった一枚。「誤読のフランク」でいろんな場所を調べたときにフランクの「黒人司祭はバトンルージュの今は桟橋(?)があるところあたりにいた」という話を発見していて、ソスのバトンルージュの写真を見ると、ほぼフランクのバトンルージュの黒人司祭が撮影された場所だということに気付いた。離れても100m以内だろう。たぶんソスは「アメリカンズ」の場所を知ってて探して歩いたに違いない。

ソスのバトンルージュ

フランクのバトンルージュ

この2つの場所はほぼ同じ

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参考資料として以下のドキュメンタリー映像はアメリカの現状に対してわかりやすく興味深い内容となっているので紹介したい。

『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』

『ザ・ファミリー:大国に潜む原理主義』

『カルト集団と過激な信仰』
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08FBH2HHW

 『The 13-修正憲法13条』


===この記事は「誤読のフランク2」の付録として2022年9月に作成し、T3フォトブックマーケットで10月9日に付録として配布しまし、ほんの少し訂正し2022年10月20日に公開しました。=====


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