「君たちはどう生きるか」で考えた。
「これは物語を作り続けることの映画だ」と思った。いつそれに気付いたか忘れたが、後半はずっとそのことを考えながら、気がついたら涙が止まらなかった。
以下は公開から二日目の午後、ほとんど情報が出回ってないタイミングでの鑑賞、直後ツイート。
それから、あーでもないこーでもないと一緒に観た妻といろいろ話してしばらく、数日間、余韻に引きづられていた。僕にとっては全体はナウシカと同じレベルの重要さがあると思った。そして我慢できなくなり、翌週飛び込んで結局2回観た。
話題性もあって語るべきこともあったので、久しぶりにnoteに感想を書こうと思ってたのに、うかうかしてたら(ゼルダの「ティアキン」やってた)、いろいろ考察のテキストがあちこちで出回ってて、時々読んで「うーん、面白いけど自分的にはしっくりこないなあ」と思ってたのだけど、中には慧眼というか、ちゃんと僕よりずっとわかりやすく解説してる文章を見つけて、「あーあ。そうだよね、先に書いときゃ良かった」と思ったりしたのだが。その素晴らしい解説は以下のもの。
下西 風澄
宮崎駿の悲しみと問いかけ─『君たちはどう生きるか』
この文章にほぼ同意というか、だいたい同じようなイメージで観ていたので、とても納得した。アニメ業界的なところについては知ったこっちゃねぇとは思ったが。
じゃあ、ここで自分が書く意味がないじゃないかとも思うが、少しだけ自分なりに付け加えたいと思ったことがあるので、まとまらないかもしれないが書いてみる。
この物語は「モノを作るという業を背負った者が直面する、モノができるまでを描いている」と僕は感じた。
上記の論でも書かれてるように、多分に自伝的な物語ではあるし、この世界をどのように作者が感じているかがにじみ出てる映画だからだ。アニメだけどとても私的な物語だ。
そもそも「どう生きるか」なんてタイトルは「どうやって生きてるか」という答えとニア・イコールだからだ。
まーでも、以下にあげるのは個人的な見方なので、「モノを作るという業を背負った者が直面する、モノができるまでを描いている」というのは、とりあえずの仮定だとしておいて頂いてよい。(最後にまとめるつもり)
「物語を作る」ということについて作家(特に小説家)のインタビューに、「物語ができるまでの間に、自分の深いところまで落ちていって、自分の中でどうしようもない、嫉妬や恨みや怒りや絶望とかに向き合わないと何もでてこない」みたいな口調の回答を見たことはないだろうか?
締切まで飲んでてぐでんぐでんになって、どうしようもなくなってから書く、みたいな話も実のところ同じ話だと思う。
結局、何かを作るということは、鏡に写った醜い自分とどれだか対峙するか?とか、言葉にできないようなイメージに追われるぐらいまで落ちてしまわないと、何もできないと言ってるようなものだ。
前作「風立ちぬ」は人を殺す兵器を作るということでものを作ることの業を描いていた。ものを作る業は罪を生むこともある。それを受け入れるかどうかというところに正直にならないと、本当に゙ものを作っているということにならないのではないか、という話だった。悪行だとわかっていてもそうしてしまう行動の癖というか、心の向かってゆくところを終わらせて示してるのが、仏教用語で「業」と言われるやつだ。
誰しも憎悪、悲しみ、嫉妬、怒りなどが心の表面では隠されてる深い部分に残されている。心理学はその心の奥底にある形のないものをイドと呼ぶ。
その深く陰鬱な隠された場所にたどり着き向かい合う一種の瞑想的な精神世界が、この物語の舞台になっていること、そのことはあちこちに映像として示されている。現実のこちら側から幻想のあちら側への誘導は何度も描かれている。
そういう意味で、この物語は村上春樹の「世界の終わりと〜」や「ノモンハンの話(あれも井戸=イドがでてくる)」に親しみがある人は、この映画は受け入れやすい部分でもあるのではないかと、僕は思った。
そして何より、人生かけて作ってきたイメージを「バルス!」って感じでぶっ壊して、これでさよならだとばかりに全部ぶちまけて終わらすという、モノ作りしてる人にとっては、嫉妬せざるを得ないほどの最後はとても感動的であった。
その最後感は終盤になるにつれ強まるので、もう、感涙を留めることはできなかった。
というのは、人によるよね。わかってる。そしてその部分の説明はどこかの誰かが書いていると思うので、割愛。
それ以外の、少しだけ気づいたこと考えたことを書いてみよう。
話がややこしいのは、塔を登ってるはずなのに物語の精神性は深層に降りてゆくからだ。
物語の表現上(絵面)では、心理学のイド、精神の奥深いところに落とされてから、物語の推移とともに少しずつ塔の階層を登ってゆくという流れがある。これは以下に落書きで図式したように、それぞれの世界に階層があって、現実世界に通じるドアが並んだ回廊やヒミの家あたりが、現実境界線があって、その下の階層に海がある。
スタートは海の階層だ。
映画のセリフの中の「上」や「下」というのは、このような階層をイメージするとわかりやすい。
ただ、階層が明確に示されてるのではなく、映画の中では多分にあいまいだ。映画の時間軸が進むと、物語の推進力としてだんだん深層に深まってゆくと感じるものだが、この映画は、どれも並列しているようにも見えるし、むしろキャラクターの動きは下ったり上に登って行ったり今現在の位置が分かりづらい行動を見せる。はっきりと明確な世界境界ラインは見つけられず、すべての世界のが並列であると見てしまうと、たぶんそこで混乱してしまう。上に登ってゆくのに深さが深くなる(奥に進む)のがこの物語の流れだ。
高さがストーリーと逆転してる。
ストーリーが進むに連れて、深いところに降りてゆくならもっとわかりやすかったのだろう。
地獄の死と生の世界
ペリカンは子を大切にする慈愛のキリストの象徴だけど、生命の魂を食べざるを得ない「ここは地獄だ」というのもペリカンのセリフからわかる。
あと、一回目、よく分からなかった墓所の機能は、二回目見たらちゃんと描かれている箇所があり、母(妹)が子供を生むために籠もってる式神が揺れてる部屋(産屋)に繋がっていた。部屋の奥に石舞台が描かれている。おまけにその一つあとのカットでは小さな石舞台の描かれたカットが挟まれているので、これは間違いがないだろう。
では、墓所の中にいるのはなにか?というと、キリコ(若)が恐れるように、ちゃんと祀らないと祟りが起きるような強力な神だということだ。
引用元がベックリン「死の島」ということからでもわかるように、死と生命の源になる神様みたいな位置づけだろう。それが産屋にあるということから、生も司っており、生の魂を食べるペリカンが墓所に殺到してるということは、海から上がってきたふわふわちゃん(わらわら)が、産屋の石舞台を通して死の島の石舞台に通じていて、ペリカンはそれを狙って押し入ろうとしてるとも考えられる。ペンギンは「行こう」「行こう」と言ってるし。
産屋が子宮であるなら、式神は石舞台から母体に注がれるふわふわちゃんの魂に介入しようとしている、ジジイの精液でもあるだろうしペリカンに食べられてしまったふわふわちゃんの成れ果てかもしれない。生と死が同居する空間だ。
禍々しいものに囲まれて、母(妹)は心の奥底に゙ある不安を口にしている。「お前なんか大嫌いだ。お前の母親になるなんて」というやつだ。それは姉の身代わりになっていることへの恐怖でもあるだろう。また、そんな危険な場所に来るなという警告でもある。
母(妹)の発言には、眞人と同じく状況に対しての大きな不安と葛藤が含まれている。
塔と神隠しは強い不安と断絶の際に機能する。ヒミが一年神隠しだったのは、母が死んだ結果だし、眞人も同様に母が死んで新しい母はその妹だったという(おまけにもう子供もいる)という、かなりショッキングな状況の変化がきっかけだ。
では母(妹)の場合はどうだろう。姉の身代わりとしての結婚、世継としての子を産むこと、家の存続のために、塔の存続のために人身御供として差し出された? いろいろあるが、状況だけ見てもとんでもない事態だということはわかる。塔の中に逃げこんでもおかしくない、とも言えるように描かれている。
もう少しゆっくり、考えてみる。
よくよく思い出してみると、産屋に入り込んだ眞人に対して、式神はまとわりついて邪魔をして母(妹)に近づけない。
とすると、今までのイメージを忘れて、一から考えてみる必要があり、式神は母体を守る役割を担っていると考えられる。
では何から母体を守ろうとしているのか?
なぜヒミ=母(姉)は入らず眞人だけが入ったのか。
いろいろ考えてみるに、この物語を最後まで見ると、肝になってるのは「罪」だったり「悪意」だったりするので、単純に「悪意」から守ろうとしてる、という理解は成り立つ。
悪意はなくとも、魂を食べざるを得ないペリカンから逃れるため、とも考えられるが、もう少しストーリーに接近したイメージだとすると、産屋自体が子宮と考え、そこに闖入してくる男性精子が眞人で、卵子の仮の母(妹)と仮想的にまぐわってしまうことから回避するために式神が邪魔をして入らせないようにし、母(妹)は「来るな」と威嚇した。それで石舞台の中からの強烈な力で強制排除されて子宮から生まれてしまい、それを受け止め手助けする実母(姉)という、一種倒錯的なシーンとも考えられるが、そこからなにしろ象徴界であるから、何が起きててもいいともいえるが、少し妄想的だ。
あまり深くはなく、生は真摯なものだから、禁忌に触れることは駄目!ってのはわかる。けどもだ。
塔が子宮で魂を注入するシステムとして機能するのであれば、ヒミが部屋に入れないのは理屈として機能する。ヒミはまだ子供(眞人)を産むには早い。入ってしまうと体を有しない魂だけの子供を宿してしまう。
でも、妹に、こっちへいらっしゃいと声をかけることはできる。
母(妹)はやはり自分の意思でここに入ったのではない。操られているから(もしくは、間違って入ってしまった)、助け出そうとして、ヒミは妹に語りかける。
最後の塔が崩壊に向かっているときには母(妹)は、狂気のない顔で水が流れ込んだ回廊を壁を伝いながら脱出してくる。
その時は産屋のシーンとは別人のようだ。ジジイの洗脳が解けたからか、塔を中心とした世界が崩壊したからか。産屋のシーンで眞人を強制排出して、仮想的な母子関係が成立してしまったからか。
なんの屈託もなく「眞人さん」と呼んでいる。脱出のためにドアの回廊に集合したときには眞人は「母さん」と呼び、本当に喜んで抱きつきもしている。
象徴界。何かはなにかであって、でもその確かな何かではない。
では、アノ黒いものは何か?
産所が子宮であるなら、アノ黒い物体は脳だ。ジジイはあの脳を作り上げた。それが世界だ。彼の。この謎めいた塔の世界。
黒い石の表面に襞がある。けど、リアルな人の脳みそほど深くはなく、細い襞だ。まるで絞った雑巾のように螺旋形に襞がある。
でも、あれだけの巨大な装置(塔)の果てとしてはとても危うくて、コントローラーとしての積み木(=罪木)はバランスを崩しそうに不安定だ。
毎日メンテしなければ壊れてしまうような危ういもの。
そこで思い出すのはナウシカのシュワの墓所。あれもずっとメンテし続ける科学者たち神官たちが、世界の秘密を蓄積した前世紀の遺物の墓所を守っている。
あとはどこかの動画で、岡田斗司夫が「塔を覆って建物を建てるのはチェルノブイリの石棺だ」と話してて、それから援用すると、毎日永遠に管理しなければならないもの、「原発(核)」のメタファーかもしれない。僕はきっとジジイは石舞台の中にある存在を複製しようとしてたのではないか? とか思ったのだけど、案外飛行石かも。
鉱石の画像をいろいろ見てみると、和田峠産 黒曜石というのが少し似てる気がする。それは古代、矢じりを作るために使われた。装飾だけではなく、武器や物を切る道具にも使われたものだ。
マンガン鉱にも似てる。
余談だけど、パラサイト隕石という石と鉄でできた隕石宝石があり、この輝きは、このストーリーのステンドグラスみたいな光の装飾に使われてた気がする。
もしかして、放射線関連? と画像を探してみたが、石は門外漢、見てるうちに何がなにかわからなくなってきたので、だれかわかる人に教えてもらいたいとも思う。
放射線鉱物はこのサイトに何種類かの画像がある。
https://www.wrap-ya.com/shop/
ただ、石というもの、鉱物というものは、何かの道具として分解されて採取される。もしくは石は人類最古の武器でもある。
ジジイは「世界の安定を〜」と話してた(と思う)が、当時は戦時中、だから戦争のない世界を求めているのか、とも思うが、その癖、配下のインコたちの国家は中央集権の王権の国のようだ。というより、兵士インコが多い。
そのインコは人を喰う。
インコの単純明快な直截さは、キムタク親父に通じるものもある。この映画では直線的な存在としてキムタク親父は描かれているが、インコ同様に世界の秩序に完全に適合してしまっている。
この塔の世界の秩序を担っているのが王権を中心としたインコの世界で、そこに侵入してきた眞人やヒミは夾雑物だ。王権の頂点に神のような存在として君臨しているのがジジイで、眞人が「僕はその石を積むことはできません。僕には悪意があります。その証拠が頭の傷です」「それは木ではない、悪意のある石だ」といい、権力の譲渡を拒否するのは、石は最初の武器でもあるし、欲望や称賛を集める鉱物や宝石にもなるわけで、闘争を誘発するものだ。
眞人の傷は、自分を傷つけることにより、自分に置かれた状況に対する拒否の証を残そうとした(あらゆる自傷行為と同様に)。それは自己の認識する世界で、様々な規範や存在から自分に向けられる攻撃と同じ量を、攻撃をし返す相手が見つからず、結果他者ではなく自己へ向けて攻撃する行為でもあり、本質的には攻撃を含んでいる。この場合の悪意とは、衝動であり本来は他者との暴力的解決方法でもある。
この場面のジジイの悪意は、自分の欲動により他者への介入をし、もしかするとその他者の人生をも狂わせてしまうような、たとえば孫娘の姉妹をどちらもかどわかし、自己の因子を埋め込もうとしてるような倒錯的な情動であって、更には、世界の終わりを自らの手を下すのではなく、インコの王様に壊させるような、故意の過失を誘発し自らを安全圏に置くことで自らの立場上の安全を図るような悪意でもあり、そもそも他者、世界を自らの思うがままにしようとする情動、それはもう悪意と言って良いもしれない。
また自分の身を傷付けることは、自分の周りの世界に対する攻撃性を外に向けるのではなく内側に向けて発動してしまう情動であり、つまり外に対する悪意と内側に向ける悪意は同量であろうとしているとも考えられる。もっと悪いことに自らを傷付けることによって、父親の権威を傘にきることになることや、新しい母に何らかの心の傷を負わせること、心配してもらえる(優しくしてくれる)ことへの甘えを許してもらえること、様々な打算と情動がそこにあったのだろう。その打算の結果を思うがままコントロールしようとすること。それは立派な悪意だ。
ジジイは世界を保つためにという理由だが、世の中から戦争がなくならないのは、なぜだろう。本当に世界のためを思っているのであれば、その力は塔の外に対して影響を及ぼしてゆかなければならないだろう。塔に閉じこもって自らの世界を守るために外の世界を見ないふりをするのは、いじめられている子がいるのに、黙ることでいじめに加担することと同じではないか? それはむしろ実際に手を下すより悪行なのではないか? 自らの手を動かさず、積み木を積むぐらいの労力で世界をわかったフリをすること、どん底が待っているのに成り行き任せにする「未必の故意」、ここではそれを悪意と言っているのではないだろうか?
え? そんなこと言ったら、誰でも何かしらの悪意を持っていることに当てはまりはしないか、と思うが。たぶん狙いはそこだろう。
(もしかして、原作とされてる本にヒントあるかもしれない。)
まとめ
思いつくままに書いてきたが、そろそろまとめようと思う。
まず、ラストシーンでの人物たちのおさらいをしよう。
一人目、ヒミ(母姉)は、この神隠しの間に、眞人に会い、とても親しくなる。やがて死ぬのがわかっていても眞人の母親になるために、現世に戻る。→自分の生きる役目がわかった。
二人目、キムタク父さん。
妻が死んだからその妹と結婚。というのは、いかにも軽薄な男だ。むしろ財産狙いのコスい男だ。世の中の社会的な価値観の権化、上手く社会的なものを利用しているとさえ思い、この物語の中の隠れた悪役でもある。
が、このキムタク父さんは、たとえば、前作の「風立ちぬ」の堀越二郎が社会に適応しきった先は、このような男にならないだろうか? 反転した堀越二郎がキムタク父さんというイメージも持っていると思う。
そして彼は、この物語のきっかけを作った。舞台をそこに持ってきた人物でもある。上でインコの王様と近しいと書いたが、たぶんそうだろう。そこもコインの表と裏の関係だ。目がインコのように怖いぐらいに純粋なのだ。
三人目、夏子(母妹)も神隠しのあとは、きっと眞人と上手くやって行けるだろう。だが、時系列を考えてみると、ひとつの仮説が立てられる。
映画の最初のシーン、「母さんの病院が火事だ」というセリフ。
母(姉)は長期入院しているのだろうと考えられる。でなければ「母さんの病院」というセリフはない。
これは妄想だけどなんとなく辻褄が合う気がしてるのは、ヒミ(母姉)のほうがこの婚姻の脇役だった可能性だ。本命は妹だったというのであれば、なんとなく個人的には腹落ちする。妻が死んで半年で子供ができて、引っ越ししてというのは結構慌ただしい。もちろん、それができる人もいるけど、この夏子(母妹)はイケイケな感じもなさそうだし、どうなんだろ? 誰かに勧められて姉の夫と姉が死んですぐに(喪が開ける一年後のタイミングで)結婚と移住というのは、現実にはあり得るが、物語的には、少し性急すぎる気がする。となると、姉が生きている間にすでにやり取りがあって、どうこうしてるうちに姉が死んで、晴れて二人は結婚に至る、とか。いっそのこと、このようなストーリーはどうだろう。ヒミ(母姉)のほうがどこかで出来た子供の父親を探してて見つけたのがキムタクで、妹に会わせたらさっそく出来ちゃってあれこれ対策してるうちに、自分が病気になって死んじゃった、とか。
どうも夏子から姉に対する嫉妬感とか罪悪感はこのストーリー上では大きく見られない。案外、大人向きにこの三人の関係でストーリーを考えてみたら、また面白いかもしれない。なにはともあれ、この神隠しのあと、夏子(母妹)は自分の心に正直に生き始める。
この神隠し前後でキャラクターの人生の立ち位置がはっきりしてくると考えると、実はこの話、運命論を否定しながら運命論にたどり着いているかも? と思ったりしたが、その運命は彼ら登場人物が物語内で獲得したものだ。
じゃあ、眞人はこの旅でどうなったか? と考えたら、いま、いく人か上げたが、このどれもが、眞人が中心でそれぞれの人に起こった変化が生まれた、という、眞人の主観視点でとても都合の良い結末になっており、一種のご都合主義にも感じてしまうが、それは逆説的でだが、眞人が、自分なりに納得のゆく解決法を見出したと捉えるのがよりマシだろうと思う。
つまり、ここで得られた「きみはここにいて良い」というメッセージは普遍的だ。
つまり、どれだけ不条理だとしても、どうやって普遍性がある物語になるかとストーリーテラーは考えているだろうから、眞人としてはこの物語で、ひとつの解決(もしくは妥協点を)見出したと考えられる。これは眞人だけの話ではない。あなたにも僕にも起こりうる物語であると、示していて、続く最後のシーンでよりそれは補完される。
異界に行って戻ってきて、普通の生活に戻るというストーリーの最後のキーパーツは塔の世界から戻ってきたときに手に持ってた、小さな石の欠片だ。
アオサギに「あっちのものを持ってきたからあっちのことを覚えてる」と言われた石の欠片。
眞人は、あちらがわの出来事を覚えていた。最後の最後のシーン、眞人がカバンに本を詰め込んで部屋を出る際、遠景で一瞬、手元が止まりカバンの中に何かを滑り込ませる。すっと音がして、すとん、と落ちる。本の0.5秒の停止画面だけど、たぶんあのとき、彼は石の欠片をカバンに入れたのだろう。
それは、きっとこの塔の話を忘れたとしても、ずっと忘れない大切な石になるだろうというシーンで、この物語は終わりを迎える。
そう「誰しも忘れてしまう」あっちの世界との関わりは特別なことではなく誰だって起こりうるし、いつ持ってきたのか忘れてしまってる、なにかのパーツや石や、そうしたものは、実は向こう側の物語の欠片なのかもしれないと思わせてくれる。
絵を描いてて気がついたら半日経過してたとか、本を読んでたら休日が終わってしまったとか、子供の頃、何でも拾ってきて気がついたら石のコレクシションが大変なことになっていたとか、現実でも物理的にも様々な「神隠し」に実はあってるのだ。
それは大人でも子供でも、なにかしらの大切な時間を過ごすことができた証なのだ。そして、ナウシカが「苦しみや悲しも、そして、死も人間の一部であると考え、汚濁とともに生きる」ことを選んだように、人がもっと根源的に人であるように、生きるという地点に戻ってきて進むということ、それ自体がとても尊いものなのだというのが、君たちはどう生きるか? という問いに対しての作者側の表明として、そう描いているように見えた。
了 20230801
気に入ってくれたら投げ銭していただけると助かります。