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1枚の写真から見えてくる大入島の風土と生業

島の古い写真を見ていると、不思議な気分になることがあります。自分の知らない世界がそこにあって、知りたくても知ることができない、触れたくても触れられない・・・だからその写真から目を離せなくなります。

さて、この港の風景はどこでしょう。今ではすっかり変わっていますが、よく見れば塩内の港のようです。港の先端に張り出した岬が印象的です。まるで、塩内の門番のように、大昔からそこにあったのでしょう。
 
この岬は、「剣崎(けんざき)」、あるいは、「島ん鼻」とも言われ、同じ塩内でも人によって呼び方が違います。ここには、弘法大師に関係する「波切不動尊」がまつられています。
 
写真の年代は、よく分かりません。いくつかの情報から、少なくても戦争以前、もっとさかのぼって、大正時代に撮られたものかも知れません。
 
一番の注目点は、港の一画が頑丈そうな石垣で仕切られていることです。これは、いったいなんでしょう。一見、生け簀(いけす)のように見えますが、違うかも知れません。・・・とにかく地元の人に聞いてみることに。
  
幸い、地区の歴史は今にしっかり引き継がれていました。昔、生け簀があったことは周知の事実のようです。それは、話として伝わっているだけではありません。今でも、海底には生け簀に使われていた石組みが残っていて、船の上からでもそれがはっきり分かるとのこと。
 
これで一件落着―――ではなく、なんのための生け簀だったか、それを知らなければなりません。玉手箱を開けると、・・・ただの生け簀ではなく、それどころか・・・
 
実は、この生け簀は、毛利の殿様のために造られた水族館のような施設でした。佐伯藩12代の何代目の殿様かは知りませんが、その殿様がタイを観賞するために、こんなものを大入島に造らせたようです。なんとまあ、酔狂(すいきょう)な殿様がいたものです。
 
「よは、大入島に渡って、たいを見とうなった。みなもついてまいれ」「たいもわしに会いたかろう。えびを忘るな」「白浜で泳ぐも良かろう、伊予(いよ)は見えるじゃろうか」―――そんな、タイ好き、島好きの殿様だったかも知れません。
 
明治になっても、生け簀はなぜかそのまま残っていました。大正5年に、住民の寄付によって、生け簀を修理した記録が残っています(記念碑が見つかりました)。もしかすると、写真はその時に撮られたものかも知れません。
 
時が流れ、昭和30年代に塩内港は大改造されました。完成の数年後に撮られた写真が次の一枚です。


コンクリートの広大なふ頭と変化に富んだ海岸の景観・・・自然と人工の対比が面白く感じられる写真です。
 
この改造工事に関わった石山ミサエさん(塩内)は、かなりの難工事だったことをはっきり記憶していました。それもそのはず、フェリーの運航がまだ始まっていない時代でした。
 
ちなみに、この頃、県道は島内各所で建設中でした。写真で見る限り、対岸の日向泊方面はまだこれからのようです。
 
現物写真を虫眼鏡でみると、大量のイリコが干されていることに気づきます。当時、「夜焚(た)き漁」が盛んに行なわれ、誰もが寝る間もなく働いたと聞いています。経験された方は、かなりの高齢になっていることでしょう。
 
最初にこの写真をみて、ふ頭がなぜこんなに広いのか不思議に思っていました。なるほどイリコや網を干すためだったか、ようやく気付きました。「そんなの常識」、そう言われたら返す言葉がありません。

今回の取材にあたり、塩内の皆さん、特に山下潔さんとイワコさんには、情報収集から記念碑の大発見まで、大変お世話になりました。お礼を言います。

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