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死 2023/03/12 ボボボブログ 雑日記

話の種

  • 基本的に自分は空っぽで何者でもない感覚がまずある。

  • 生まれた時からこの余白に気付きもしない、アイデンティティの塊に嫉妬する

  • 刹那的に生きる人達の物語を観たい、追体験したい。1回しかない命をさいこーにぶっ飛ばして無駄にする人の、そんな人生

  • あ、サイバーパンクエッジランナーズってそういうアニメだったなそういえば。

  • 自分らしくいたいか?

基本的に自分は空っぽで何者でもない感覚がまずある。多分ほとんどの人が本来はそう。上手く塗りつぶせていたなら上出来。空のままでもいい君も、僕からしてみれば羨ましい。
自分は空のままだと苦痛だから色々とあの手この手で空っぽなそれに色をつける。
何かに熱中したり、自分の癖を見つめたり、もしくは社会の中の自分という相対的な角度から個性を獲得する人もいる。空白のままでいい、と、空白に気付かず、訳もわからないままもみくちゃにされている人は別。

自意識が芽生え始めた時の自分にとって一番手っ取り早かったのが、「塗る否定」色で塗ること。サビのようなインクはよく伸びたし、なかなか落ちなかったので効率が良かった。塗るつもりはなかった、拒絶そのものが能動的に色になっていった。
高いところから見たら、それは色じゃなくて、ただ地が汚れただけだった。塗る必要がなくなったと思いたかっただけで、自分は結局何色にも塗れちゃいなかった。

じゃあ今何色に塗れてるのか?今はまさに何色に塗るか思案しているところです。


命の使い方

ここ数日、時間を、命を何にベットするかについて考えてきた。最近会ったあいつは自分とはその点において真逆で、常に何かにベットするような人生を送っていた。彼自分が何にベットするかを選ぶ権利がないかのように瞬く間に、衝動的にしたいことを手にとる。
スマブラの対戦の真っ最中でも、流れている音楽の特定のリフが刺さればコントローラーを投げてギターを手にとる。
僕は僕で、彼の嵐に巻き込まれるのが全然嫌いじゃない、むしろ飽きない。四六時中一緒にいたら疲れるだろうが、自分の対応力、鏡スキルはベットのできなさの賜物かもしれない。
(彼の話をしている時だけ一人称が自分から僕になってる。相対的なアイデンティティーを獲得しているのか?)
しかしわざわざ隠そうとしなくても、彼以上のギャンブラーは世の中にはごまんといる。危ない橋を渡る奴ら。そんな人たちの人生を追体験したいなとふと思った。

なぜそんな体験をしたいんだ?

なんとも無難な道しか選べない自分は柔らかい椅子に尻を押し付けながら頭の中をこねくり回すのがお似合いなはず。ただそんな自分でも一丁前に、論理も安全バーをもぶっ飛ばした生活をどこかでは求めてるのかもしれない。
それとも逆で、あーあ、あんな生き方をしてもやっぱりろくなことにならないね。と嘲りたいだけかもしれない。ただ、届かぬブドウを酸っぱいと決めつける狐になりたくもない。だからせめて、追体験という形でブドウを味見してみたいのかもしれない。
いやしかし、追体験と自分の一回こっきりの命を賭けた体験なんて本質的に何もかも違うのだから結局ブドウを食べたいのなら必死に手を伸ばすしかないのか。
あー嫌だ嫌だ笑


  1. 境界のはっきりしたあの世と

  2. ぼんやり浸かっているあの世がある。

  1. あと数センチ前にでたら絶対に死ぬ
    って時に見える死と

  2. ああ、このままだと間違いなく死ぬ
    って時に見える死

1 のあの世は、境界がはっきりしてる割には想像力が必要で、2はぼんやりとしている割には死の実感がかなり強い。
1は結構多くの人が直面したことがあると思う。ジェットコースターで、あーこのまま安全バー外れたら自分間違いなく死ぬなー、みたいな。2はどっちかっていうと重い病とか、瀕死の事故とかそういう比較的少数の人が経験するものな気がする。
何が言いたいかというと、2を経験した人は人生観が明らかに1しか知らない人とは違うと常々感じる。もし今が狩猟時代だったなら2を経験してない人はまだまだ子供扱いされていたかもしれない。

では、また

斎家リック

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