音楽初心者が「空洞です」を聞いてしまった 2023/02/21 ボボボブログ 雑日記
話の種
例のTさんとの関わりをきっかけにゆらゆら帝国の「空洞です」を通して聞いた。
以下感想
左耳と右耳の使い方
おはようまだやろうとひとりぼっちの人工衛星が今のところ一番好き
虚無を肯定しきれてない自分
音楽、感情と時の流れ・自分は音楽に何を求めるのか
ゆらゆら帝国
初めて存在を知ったのはおませちゃんブラザーズというサブカル紹介系ユーチューバーの動画。だが見たのはかなり前だったのでほとんど動画の内容を覚えていなかった。確か「3×3×3」を聞いたが、自分には全然早いわ、、となってすぐ手放した。改めて、自分と向き合うことに当時よりは慣れた自分が聞いたら一体どのように音楽体験が変わるのか、試してみたかったのでちょうどよかった。
「空洞です」を聞いた感想
正直1曲ずつ書きたい。でもちょっと流石に長くなりそうなのでやらない。なので全体を通して得た気付きをかいていく。
空洞
まず初めに、アルバムのタイトルにもなっているのでわざわざいう必要もないかもしれないが、やはり「空洞」の表現になんとも唯一性を感じた。個人的に感じたものは、空洞に加えて、それを肯定する苦悩の過程のようなものだった。おそらく僕自身が、自分の空洞性を肯定しきれていないからこそその過程の苦悩に感じるのだろう。神?いや、ナレーター?のような人?視点でありつつ、どこか超越的、概念的な語り口調、視点のポジショニング、音の質がどれも本当に今まで触れたことがないものだった。音使いで言えば、表拍と裏拍が全然読めないタイミングで切り替ったりするつかめなさ(確か「あえて抵抗しない」)と、あるいは真逆の、終始一貫したビートで展開がなかったりする(確か「やさしい動物」)表現はどちらもが無機質感や、意識から追い出された「ない感情」感を強く感じ取った。本当に表現の幅を広げるような試みだなと感じた。改めて、自分は全然音楽に詳しくないので元々普通にみられる表現だったら恥ずかしいけど、少なくとも自分は聞いたことがなかった。蛇足だが、おそらくビートに特に意識が向けられるのは自分がドラム奏者だからだろう。
左右の音の配置と傾向
聞いていて一つ気付いたのは、右耳寄りと、左耳寄りとで若干音の配置に何かしらの傾向があった気がした。すごく抽象的で、こじつけ感も否めない程度のものだがちょっと書き起こしてみたい。
左耳の音感
冷たい
鋭い
硬い
支配的
不安、不安定
嫌な記憶を思い出す時の感じ
右耳の音感
暖かい
丸い
柔らかい
解脱感
安心
ノスタルジック
中央(上の音、下の音)
中立性
神聖さ・俗っぽさ
精神性・社会性と物質性
外殻
なんかこういった傾向があった気がする!知性のかけらもない文章だが、それ以上特に語ることがない。あ、でもめちゃくちゃ面白かった。こんな視点で音楽を聞いたことがなかったので発見の連続という感じで、思い出しながら書き起こしていてとても楽しかった。
中でも好きだった曲
「おはようまだやろう」を聞いていて想起するのは、空虚の上に立つビルたち。歌詞をあまり拾いきれていないのだが、その中で想像していたのがそれだ。世界が「ないもの」の上で交わり合って、離れて。そういった営みが限りなくリアルに映る。でもそれらは全部本質的には空。そんな空気が漂うのに、どうしようもなく心地が良くて胸が締め付けられる。どこからか、何なのかもわからない声が語りかけてくれる。幸福。
「ひとりぼっちの人工衛星」を聞いていると、心の底から執着を手離して、真心で自分のしたいことや好きなことと相まみえることができる気がする。それと、「学校へ行ってきます」で感じる、体を奪われ唯一残った心さえもが瀕死に追いやられるような不安定さ(恐怖ではない)の直後にくるのがこの「ひとりぼっちの人工衛星」。安定した着地地点かと言われたら、そういう場所でもない。なんだか、長く居たい隙間みたいな感じ。ラストのアウトロの、宇宙に漂い流れ出ていく感じが素晴らしく空洞。
自分は音楽に何を求めるのか
自分は音楽を聴くことで、ようやく時間が流れた、というような感覚を得る。そしてその「時間が流れている感覚」は、「人生の有意義性」という感覚とすごく密接な関わりがあるように感じている。時間が止まったまんまの感覚の時は、人生を有意義に生きることができていないような気がしてしまう。それで結果的に、深層心理で、音楽を聞いていると時間が流れ、有意義だなと感じている気がする。深層心理にとやかくいうのもどうかと思うが、自分は極度の理想家なのであえてここにそのとやかくを突っ込みたい。有意義性を気にしない人生が一番有意義じゃないのか、と。この有意義性を求めてしまう自分、今のままじゃ自分は空洞なんだ、という焦る自分。目的意識があったわけじゃないが、自分の中の有意義性というカテゴリの空洞を埋める道具になってしまっていた音楽。そんな、自分が好きだと思っていた、何度も泣かされた、音楽。それがついに自分の空洞性を眼前にまじまじと見せつけてきた。その衝撃ったら。こんな感情になったことがないのだから綺麗な言葉に封じ込められるわけがない。涙が出るわけではないし、抑えられないほどの笑みが溢れるわけでもない。胸を抉られるような痛みでもないし、胸を溶かされるような愛情でもない。叱咤のような罰でもないし、母親のような慰めでもない。ただぼんやりと、何かが、何かを、なぜだかちょっぴり楽しんでいる。
自分は自分の空洞を愛しきれていない。いつか間抜けだった、時間の無駄だったと後悔する日が来そうで怖くてならない。ただ今日この音楽を通して、何だか自分の空洞性を少し愛せるようになった気がする。もう少しそこをまっすぐ見つめる日々を重ねてみようと思う。
では、また。
斎家リック
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