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自分の宗教 2023/03/14 ボボボブログ 雑日記

話の種

  • 何かわからんものを見た時の人の脳内

  • アメリカのチップ制度

  • アメリカの自販機

  • 自分は無意識的思考、無意識的学習が得意。逆に意識的学習が下手。意識的思考は書くことを通して訓練しているところです。

  • 笑いの本質は、共感とギャップの気付きだと仮定する。

  • もうちょいと平凡な人と関わらないとしんどくなってしまう。すごい人がいっぱいいる環境にだけ一丁前にいる事が多かった気がする。

  • 僕の今の直観的宗教観は何か?身内が死んだ時に反射的にどう思うかなど。

  • 宗教観にもレベルあるよね。発想として信じているor/and 信じたい宗教観と、自分が根底で無意識に信じている宗教観(ここでの宗教観は、例えば死んだらどうなる、のような疑問に対するスタンス。特定の宗教を指さなくてもいい。)

  • 直観的宗教観や世界観の乖離は意外としんどいのかもね、どうだろ。

  • 自分の思想的宗教は名前をつけるなら芸術教、が一番いいかも。


変わるがわる現実

前提として、自分はあまり目が良くない。

今日図書館の中を歩いている時、変なあるあるに遭遇した。すぐそこに、ソファに座ってパソコンをカタカタいわしてる人がいたのだが、その人の頭部が、何やらおかしかった。いや、正確には、その人の頭部を見たときの自分の頭の中が少しおかしかった。だがそれこそが、その瞬間が今回提示したいあるあるなのである。
変わらない情報は、その人の頭は頭頂部がほんのりうじゃうじゃとピンクだったことだけ。自分の脳はその情報を出発点に、様々な経験をあてがって自分なりの現実を構築していた。
脳みそがはみ出ていた。地肌の上のピンクのタトゥーだった。モヒカンだった。鶏のトサカだった。スポンジだった。
これらは全て、コンマ数秒の間にアンパンマンの頭部のようにカシャカシャとすり替わっていって、でも等しく根拠のない説得力を持っていた。
自然現象は実験という検証を元に根拠を得て、そこに存在を確立させている。赤子だった僕らは、母親の両手の甲の後ろに母親がいるということを繰り返し体験し、根拠とすることで、見えないものも存在できるということを理解し証明する。反復可能だからそれは現実味を帯びるし、説得力を得る。
ただ、例外もある。見えたものは、反復可能でなくてもそれだけで「ある」かのような説得力を持ってしまう。
首がない人間が歩いていたとする。それは自分の知識によれば、科学的根拠によればあり得ない。でも実際に目の前で歩いていたら、それはどんな根拠であれ、どんな種や仕掛けがあったとて、それを見た瞬間は脳内で「ある」ことになってしまう。
それと同じで、カシャカシャとすり替わっていく彼女の頭部は全て、見えているというだけの根拠で、自分の中では確かに「あった」のだ。


アメリカの文化

レストランでもチップを払わなくていい条件がある。
客席までわざわざ運んでくれたり、メニューを持ってきてくれたり、簡単に言えば、席まで来てくれるサービスをしていればチップを払う。逆にそれをしていなければチップはいらない。アメリカ人は、働き手がチップありきの時給で働いているのか、チップは貰わない前提での時給で働いているのかが経験でわかっているらしい。
そんなのわからんて。

アメリカの自販機は日本のものと比べて本当に性能が悪い。まずほとんどの自販機が、いかにも安く生産できそうな構造をしている。詳しく説明すると、商品棚に陳列された商品達は全て、コルク抜きの、いわゆるスクリュー型の金属棒の各隙間に挟まっている。それでそのスクリューをピッタリ一回転させることで商品を一つ前に押し出して、受け取り口に叩き落とすという算段。
これがまぁ精度が悪い。商品によってはそもそも形が合ってなくてスクリューから外れることもあるし、手前の壁に激突して宙ぶらりんなこともある。自分はまだ4回し利用したことがないが、2回は何も得られなかった。自分はUFOキャッチャーでもしているのか、、?と思わされる。というか日本の自販機に対する期待を捨ててUFOキャッチャーだと捉えないとアメリカの自販機の不条理さに殺されてしまう。
当たり前に商品が出ると調教されてしまった自分にとって何も出ないというのは結構ムカつきました。やっぱり人間期待を裏切られるのって本当に嫌なんだなと思った。
というか人間って日常的に、本当に無意識で色々なことを期待して動いてるんだろうな、と思った瞬間でした。


宗教

今日はめちゃくちゃ宗教関係のインプットがあったので本当に色々書きたかった。でも時間もないし、もうすでにいっぱいしょーもないこと書いてしまったのであんまり時間割けません。きぇええ。
とりあえず一番心に残ったものについて書く。

今日はモンタナから来たキリスト教の人たちと話す機会があった。その人達に自分は宗教の坩堝の国、日本から来ていて、東洋哲学や西洋哲学を学んでいる。東洋哲学の基礎にはこういう考え方があって、それがすごくキリスト教と似たところがあるからおもしろいんだよねー、みたいな話をしていたらめちゃくちゃ興味関心を持たれた。みなめちゃくちゃopen mindedで客観的に自身の進行する宗教を見つめていたのでそういう話ができた。日本のそこらに蔓延る弱者を貪ることしか考えていない宗教と比べたら本当に見上げたもんだなと改めて思った。そこであるポイントで言われたのがこんなことだった。

「あなたは結局どういう宗教観を持っているの?宗教観という言葉があなたの思想にそぐわないなら、もちろん他の言葉でもいいわ。ただあなたがどう世界を捉えるか知りたいの。」

あーー、確かに色々な視点や思想を学んできたけど、じゃあ結局自分はどうなのか、あんまり考えたことなかったな、、ということでほんとに軽く考えてみた。

まず自分はベースとして西洋的な視点と東洋的な視点をうまく融合していたいなと思ったのでそういった要素が含まれています。
それと、あくまで自分がどう考えていたいのかをまとめただけなので、実際に自分が反射的に事象をどう捉えているかには直結していないと思います。あくまで自分の理想論として。というか、本当に自分はこういうふうに生きたい、って思ってることを言ってるだけの内容になってしまった。


芸術思想

  1. 主観を積極的に理解しようとすることで自分と自分が見る世界の解像度を上げる。

  2. その上でその世界観の表現を磨くことで外界との調和を目指す。

この二つの法則に従ってうまく生きていけば自分は幸福なんじゃないかなと思う次第です。芸術思想なんてたいそうな名前をつけているけど、人とのコミュニケーション、自身の目的達成への道筋を明晰化する、なぜそれを達成するのか、とか、いろんなことに応用が効いてすごく良い法則なんじゃないかなと思う。
ああなんかもう自分が何を伝えたいのかをちゃんと見つめる集中力が切れてきたのでもう寝ます。

ばいちゃ

斎家リック


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