宗教の代わりに何をなすべきか? No.4 生老病死 無常

この前は、ヨガをヒンズー教の宗教行法、苦行者の行法としてお勧めしない、そして禅は無宗教でも構わないと書きました。もう一つ、原始仏典に書かれるお釈迦様の教えは宗教ではないかと、言われるかもしれませんが、もともとお釈迦様の教えは、必ずしも宗教では有りません。むしろ哲学であり、生き方の知恵であり、トラブルを未然に防ぐための道理とでも言うものです。
ですから、絶対帰依したり、祈ったり、題目をあげたりすることによって、永遠の生命が得られるとか、極楽へ行けるとか言うものではないのです。

こういう話しが有ります。(キサーゴータミーの話し)
ある日お釈迦様の所へ、最愛の息子を亡くした母親(キサーゴータミーと伝わる)がやって来て、涙ながらに、「どうか子供を生き返らして下さい」、と懇願します。
釈尊は、その母親に同情しつつも、次のように言います。
「未だかって死人を出したことの無い家から、火を貰ってきて下さい、そうしたら生き返らしてあげます」と。
そこで母親は、そのような家を探して、周辺の家々を何日も訪ねて歩きます。しかしどこへ行っても、未だかって死人を出したことのない家は見つかりませんでした。
失望している母親に、釈尊は、「生有るものは必ず死ぬものだ」と教えて、無常を説きます。その母親はその教えを理解し、釈尊の弟子となりました。
この話しに有るように、釈尊は、超自然的な力で死人を生き返らせてやろうとか、極楽浄土へ導いて救ってやろうとか言うことを説きませんでした。そのような「戯論」をあくまでもしなかったのです。ただ、生者必滅と言う無常の教えを説いたのです。その真理をどう受け止めるかと言う哲理を説いただけです。
従って、世の多くの宗教のように、自派の葬式をやって死者を極楽へ送り出すと言うようなこともしなかったのです。

最近、僧侶に頼んで大金を出して戒名をつくって貰い、その上、大金をかけて立派な葬式をすると言う家庭が減っているそうです。何より、不安定雇用の人が全勤労者の半分位になってしまい、生きるだけで精一杯で、そんな大金を工面するのも大変な時代になってしまいました。
そのような大袈裟なことをしないで、家族だけや、近隣の人たちだけで簡単に済ませてしまう家も増えているようです。
僧侶や寺院にとっては収入源がなくなって困っているようですが、案外、釈尊の本来の教えに近づいているのかも知れません。








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