宗教の代わりに何をなすべきか? No.7

「大我妄執」=絶対的な神仏からの自由

曹洞宗の只管打坐と臨済宗の考案と、両方を修行した原田祖岳禅師(1871〜1961)は、『正しい座禅の心得』(大蔵出版)の中で、仏教の教えから外れるいわゆる外道の「我」について述べています。

ごく簡単に言えば、

「小我」とは、自分の生死、損得、安楽、立身出世、家族など、もっぱら自己周辺のことにこだわる我。
「中我」とは、国家、民族などにこだわる我。
そして「大我」とは、エホバ神とか、コッドとか、アッラーとか、自在天とかにこだわる我。
これらの「我」にこだわることは、全て我執であり、無我の教えである仏教に反するものであり、間違いだと述べています。
(外道禅の項)

もう少し広げて、これを現代的に考えれば、「中我」には、薩摩だとか、長州だとか、大日本帝国とか、日本民族、日本の伝統とかも含まれるでしょう。自国の国益第一、日本第一、日本民族最良、その反面で他国、他民族へのヘイトを煽ったりすることも、「中我妄執」と言うことができるでしょう。

そして「大我」には、キリスト教の神も、ヒンズー教のシヴァ神やヴィシュヌ神も含まれるでしょうし、バラモン教で言う宇宙の根源としての梵=ブラーフマンなども含まれるでしょうし、よく言われる「永遠の生命」とかも含まれるでしょうし、絶対者としての○○仏とか、大日如来とかも含まれるでしょう。

しかしながら原田祖岳師自身は、中我としての国家我、民族我にとらわれ、日本のアジア侵略、勢力圏拡大、資源強奪の戦争を聖戦と考えて、積極的に戦争に協力しました。そして、他のほとんどの、仏教僧侶、仏教団体も、神道の人々も、戦争に協力したという現実が有ります。

つまりは、大我に囚われていた宗教家たちは、中我にも囚われて、国家主義に染まり、民族排外主義に屈服して、それが自分たちの利益になると考えて、小我にも囚われて、積極的に戦争に加担したということです。

考えてみれば、日本の仏教(大乗仏教)は、一向一揆のような特別な時を除いて、概ね権力者の側に立ち、権力者の庇護を受けて伽藍と既得権を維持し、小我、中我、大我にとらわれてきたのですから、先の戦争の時にも同じような、行動をしたのも驚くことはないかも知れません。

しかし、そのように「我」にこだわることは、本来の釈迦の教えとは違うのではないか、と言うことは、頭の何処かに置いておくべきだと思うのです。

で、仏教とは大我を否定するのですから、No.3で書いたように、ヨガをやると言っても、ヨガの八段階の最後の瞑想での三昧は、ジヴァ神と一体になるとか、宇宙と一体となる、と言うような現実離れした、大袈裟な神秘主義的なものでなくて、只管打坐の、只座るだけ、ということになるのだと思います。
当然ながら、この世界の外に大我が有るのではない以上、この、意識は世界に留まるのであり、目を閉じて瞑想世界に昇天してしまうのでなくて、目を開けて座禅すると言うことになると、思います。

原田祖岳師も、坐禅では目を閉じない、禅は目を閉じて瞑想をやって幻想の中でいい気持ちになっているのとは違う、と語っています。

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