【小説】 亮介さんとあおいさんとぼくと 1/30

《三十歳をむかえて》

三十歳になったいまでも、人生の意味とか、生きる意味とか、生きる価値とか、そういう哲学的なことはよくわからない。

けれど、とりあえず、生きていけばいいんじゃないかなとおもっている。三十年も人生をやっていると、そういう哲学的な問題とは、うまい具合に距離をとれるようになってくる。

その一方で、生きる情熱が失われてしまったようにおもえる。傷をつかないように、落ち込まないように、じぶんの気持ちや行動をコントロールできるようになった。

ずいぶんとぼくの人生はおちついてしまった気がする。

なぜ、そんなことを書いているのかというと、若いころは、ずいぶんと生きるのがヘタクソだったからだ。

じぶんの価値とか意味を、とにかく脅迫観念のようにかんがえていた。

はじめて女性に抱かれたときも、お経のようなつまらない講義をきいているときも、亮介さんとチャーハンをたべているときでも、「じぶんはなんで生きているのだろうか?」とふと頭によぎったのだった。

人生をおくるのがヘタクソだった。

高校を卒業して、親元をはなれて、ひとり暮らしをはじめた。お金には限りがあったものの、自由がうまれた。

じぶんはどのように生きるべきなのかと、あれやこれやと試行錯誤していた。いろんなことを試さないことには、じぶんの才能や可能性がわからなかったのだ。

ヘタクソで無知だった分、思い切ったこともできたのも事実だ。しかし思い切りがよすぎて、じぶんの知らないところで、ひとを傷つけることがあったかもしれない。

あるいは、覚悟をきめて、あえて、ひとを傷つける必要もあった。

それでも、失敗をくりかえしながら、大人らしくなっていった。じぶんの可能性をみて、目の前のたくさんの選択肢のなかから、いろんなものを選び、いろんなものを試し、いろんなものを捨てた。

つまり、なにかの可能性を伸ばすことと引き換えに、なにかの可能性を失われていくことでもあった。

選択肢を用意しすぎても判断にこまるし、選択肢をしぼりすぎても、本当にこの中から選んでもよいのだろうか、とまよってしまう。

判断にまよっているとチャンスを逃してしまうし、あせって選んだとしても、ほかの選択肢がよかったのではないかと後悔をする。

そんな優柔不断な、いわゆる青春時代を過ごしていた。今のじぶんをみたとき、当時のじぶんは納得してくれるだろうか。

ーーー次のお話ーーー


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