2. 死はいつもあなたのそばにいる

あなたは死ぬことを望んだことはあるか?

私にはある。

いつから、「私は死にたい」とつぶやくのか習慣になった。家に帰ってテレビを見ていても、突然、ガラスからあふれた水のように「死にたい」という言葉がもれた。

私は実際のところ死にたくはなかった。しかし、この世界に生きることの難しさは感じていた。

逃げることができるならこの世を脱出したい。だが私はそれをすることができない。だから私は、私の心の叫びとして、「死にたい」という言葉で、心を逃すのだろう。

この間、街を歩いているときも、私は無意識のうちに「死にたい」ともらした。周りにいた人々がそれを聞いていないだろうかと心配している。

もしそのような私に遭遇した人は、その後、友人に会った時にでも、「狂った人があそこにいたんだ」と言うに違いない。私を使って笑い話を。

生きることはかなり自然だと考えられているが、実のところ、ただ生きているだけでさえ非常に難しい。毎日、同じことが繰り返されると言うならば、たしかにそうとも言えるが。

危険は繰り返す。日常生活の中に潜んでいる。車の運転、私を叱りつける老人、狂った弟の存在。私の生活をハードモードへと高める因子はたくさんある。

人生は丘を登るような穏やかなものではない。エベレスト山を登るように長くて険しい道だ。私はその山を一度も登ったことはないが、あなたは私が何を意味するかはわかるだろう。


生きていること。それはかなり難しい。しばしば、私は人生をそのように感じる。もしあなたが人生で何かを達成する意欲があるなら、そのことは生きることをさらに困難にすることは間違いない。保証する。

一方で、私の人生において、死は至るところに存在してきた。この瞬間、誰かが生まれ、誰かと誰かがベットで愛し合っているように、誰かが死んでいる。

私はある日、死がそれほど遠くないことに気づいた。どれほど簡単に生きていたかにも気づいた。人生を理解したと思った。

私のことを、とても気遣ってくれた先生が死んだとき、私は、はっきりと気づいた。それから年を取るにつれて、難しさが増していると感じる。

長生きすると、それに応じてさまざまな形の死に直面するからだ。生きていくためのシステムが何度も壊れているのを見たからだ。

生きていくためには、システムを作る必要がある。活動、友情、食事、娯楽など、日常生活にはバランスが必要だ。維持しなくてならない。

バランスが揺らいだり、崩れてくると再建を始める。修復が不可能になってくると直ちに死がそばにやってくる。

たとえば、友人が精神的な病気であると仮定する。バランスが崩れている状態だ。あなたがまともな精神状態に長時間住んでいると、あなたは彼・彼女の奇妙な言動を見て、関わりを断つかもしれない。

私の人生において、私の周りにいたいくらかの人は、あまりに気分が悪くなったため、死を選んだ人もいる。あるいはなんとか戻ってきた人もいる。

すべての道が死につながる。人生はいつも幸せでもないし、平凡でもない。私は、人々が気分が悪くなり、病気になり、死んでいくのをみた。あなたがもしその途上にある場合の参考書になると思い、私は今、デバイスと直面している。



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