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【短編法話】「恒」 と 『常』の 味わい

〔毎月発行〕おてらの読みもの 寺報『世間解(せけんげ)』2024年6月号ー 浄土真宗本願寺派星野山西法寺-

 

 西法寺住職が執筆する「短編ご法話」

 六月であります。この月が済むと今年も半年過ぎるのであります。毎日、毎日いや、一時、ひととき、一呼吸、一呼吸の積み重なりであります。

 その間一瞬も途切れることなく、阿弥陀さまのご本願は私を支え、育て、護り続けてくださっておるのであります。そのご本願のお力が先立たれた方をお浄土に生まれさせてくださり、阿弥陀さまと同じお覚りをひらかせてくださっておるのであります。

 先立たれた方は阿弥陀さまの本願力によってご往生くださり、今は阿弥陀さまと一緒になって、色んなことにあってゆかねばならない私の日暮らしを途切れることなく支え続けてくださっておるのであります。

 だから私は「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏を味わわせていただくことが出来ているのであります。



『一念多念文意』に伺う「恒 と 常」


 親鸞聖人がお書き残しをくださった『一念多念文意』というお聖教に、



『「恒」はつねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。』



というお言葉があります。「恒」も「常」も「つね」と読む字でありますが、ご開山さまは意味をかえられているのであります。

「恒」という「つね」は時々、途切れ途切れではあるがということだ、
「常」という「つね」はズーッと、決して途切れることがないことだ

とおっしゃるのです。

申しあげるまでもありません「常」は阿弥陀さまやご往生くださった方々が私を支え続け育て続けてくださっているおはたらき、本願力であります。

『常』とは、阿弥陀さまの本願力である


 その本願力のおはたらきがズーッとあってくださっているから私は「あっ、そうやった」と阿弥陀さまのことや親鸞聖人のことやご往生くださった方のことを思い出すことが出来ているのであります。
 その本願力のおはたらきがズーッとあってくださっているから私は時々ではあるかもしれないけれども「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を思い、聞かせていただくことが出来ておるのであります。

 この半年間なら半年間、私の日暮らしの中には色々なことがやってきました。元日には能登半島で大きな地震がありました。大きなことは記憶に残っていますが、大きなこと以外のほとんどは忘れ去っています。しかし、確実に私は経験をし何かの思いを持ったはずのことばかりです。

 うれしいことも、悲しいことも、悔しいことも、楽しいこともあったでしょう。な~んとも思はないことも無数にあったはずです。

 一瞬一瞬私に恵まれた“いのち”の一コマ一コマであります。その一瞬一瞬のどこをとっても、阿弥陀さまやご往生くださった方の「お前さん必ず支えてるで、お念仏を依りどころにして生きてくるんやで」というおはたらきは途切れることなく私にかかり続けてくださったおるのであります。




権化の仁


 親鸞聖人は「権化の仁」(ごんけのにん)ということをおっしゃるのであります。私を阿弥陀さまの教えに、私が阿弥陀さまやご往生くださった方々に願い続けられているんだということを気づかせるためにお浄土から来てくださった方ということであります。

 私にはどの“いのち”が権化の仁であるかなど絶対に分かりませんし、知る必要もありません。権化の仁も自分が権化の仁であるなどとは決しておっしゃいません。

 しかし、確実に私にいろんなご縁(それは決して良いことばかりとは限りません)を結んで、私を阿弥陀さまのお育てに気づくようにおはたらきくださっているのであります。

 梯實圓和上は
「ご自身が煩悩にまみれ、苦悩のまっただなかで、煩悩だらけの私に阿弥陀さまのおはたらきをお教えくださるのが権化の仁なんだな」
とお教えくださいました。

 阿弥陀さまの、ご往生くださった方々の、権化の仁の途切れることのない「つね」なるお育てによって私は「なもあみだぶつ」というお念仏のありがたさに気づかせていただくお育てに遇わせてもらっているのであります。

合 掌

『世間解』第436号


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