雪組「BONNIE&CLYDE」感想3。ボニーとクライドの恋について。

「ごめんね、やっぱりクライド&ボニーじゃ語呂が悪いの」

「ごめんね、やっぱり死ぬ話になっちゃった」とは決して言わないボニーと、それでも死ぬことをはっきりと書くボニー。ボニーにとって自分の最後の詩がクライドに響くかどうかはきっと大した問題ではなく、彼女はそう書きたくて、それが彼女の意思表明なのだろう。いつだってボニーは「私の思うこと」を語り、クライドはそれを受け止めることができる人だった。クライドがどんなに追い詰められても、クライドの言ってほしいことをボニーは言わない。言わないけど、それでもボニーがどこまでもクライドを信頼して自分の言葉だけで話し続けるからこそ、クライドはボニーだけは見失わないんだろう。
 ボニーとクライドは自分の考えを互いに完全にわかり合っているのではなくて、わからないことも多々あるけれど、それでも相手が自分に対していつだって正直であることを知っている。本当はそれだけで十分で、ボニーはクライドの純粋さを知っており、クライドはボニーの言葉を全て先入観なしに受け止めることができた。

 ボニクラのフィナーレでクライド役の彩風さんが舞台上の人たちを全員撃つ振りがあるのだけれど、そこで唯一生き残ったように見えるのがボニー役の夢白さんで、ここの構成が私はすごく好きだった。ボニーはクライドが唯一殺すことのできない他者で、だから恋に落ち共に死んだんだ。そういう解釈がある場面で素敵だったなぁ。ボニーとクライドは全てのピースがうまくハマるように完璧な組み合わせ、なんかでは決してなくて、出会ってしまったタイミング、そして二人に起きる出来事の重なりで、どんどん互いの唯一無二の存在になっていった、そういう恋人同士だと思う。というか、完璧に分かり合って支え合って完璧な理解者になれる関係なんてこの世にはなく、そういうのは幻想なのだと私は思っている。ボニーは一般的な価値観に馴染めず、それでいて自分の言葉をちゃんと聞いてくれる家族や仲間を持てていなかったし、クライドは自分の向こう見ずな生き方と共に走ってそれを「生きること」だと言ってくれる人に出会えていなかった。そんな二人があのタイミングで出会った。二人をギャングにしたのが時代によるものなら、二人を恋人にしたのだって時代によるものだ。でも、そういう刹那な偶然すぎる出会いによる恋が、私はとても好きだなって思う。運命の相手とか自分にぴったりの相手、とかではなく、出会ってしまった人をがむしゃらに愛していける人たちを恋人って呼ぶのだと思うし。そこに血の匂いがするのがボニーとクライドなんだと思う。

 クライドが殺人を犯してしまったとき、共犯にされると言ってボニーが逃げようとしたあのタイミングで、クライドにとって本当の意味で唯一無二の女性にボニーはなったんじゃないかなって思っている。あのフィナーレでもそう思ったけれど、全てを破壊して生きることしかできない人が、自分の犠牲者には決してならないボニーという存在に救われている。自分には殺せない人がいて、それがクライドの中では「自分が守るべき人」になる。単なるラブストーリーにある「守りたい人」なんかではなく、ボニーはクライドにとってまず「殺せない人」「犠牲者にできない人」なのだ。だから結果的に「守る」ことになるし「愛す」ことになる。隣にいても破滅しない、自分がその人を見殺しにすることもない。その事実がクライドの切羽詰まった状況下で他者を自分より優先することがどうしてもできない臆病な感性に、そのままで「愛」を存在させられるのではないか。クライドは自分にとって大切な兄でさえ、巻き添えにしてしまった。けれど彼は鈍感ではなく臆病なだけなんだ。自分のあり方に傷ついているのは誰よりも本人で、恐ろしく繊細で自分を誰よりも許していない。そうした中で、いつまでも隣にいてくれ、死ぬときは一緒だと断言してくれるボニーはクライドが唯一加害者にならなくていい存在なのだろうな。だから恋をした。すごくわかる、すごく、わかるしクライドという人物に愛が芽生えるということ、そして愛が彼を軟化せなかったこともしっくりくる。こういうところの感情の描き方がとてもいい作品だって思う。
 ボニーは感受性があまりにも鋭くて、他者が自分の言葉を理解してないこともすぐに察知してしまう人だし、それでも他人が傷つくことがすぐにわかるからこそ誰に対しても本当の意味で優しく、母親のこともテッドのことも傷つけないように振る舞う。ただ、彼らに優しくすればするほど自分の本当の姿を彼らは見なくなっていくし、「いい子」としてのボニーが彼女の人生を侵食していたのではないかなぁ。ママとの喧嘩シーン、どこまでもボニーが正直にクライドのことを話すのは「ママならわかってくれる」と思ったからで、ママとはずっと仲が良かったし理解もされると思ったからなのでは?でも、ママのパパへの祈りに対してすこし距離を取った顔をしていたボニーは、ママに対しては「ママのために」存在していて、もうボニーその人としてママの前にはいなかったのかもしれない。ママにとってみれば犯罪者と付き合うような子ではなかった、のかもしれない。ボニーがあんな人生になるのは彼女の性格を見てると自然の流れに思えるけどママにとってのボニーは案外そうではなかったんだろうかって。
 ボニーはクライドが何もかもを傷つけてしか生きていけないことを知っていて、それが彼自身を追い詰めているのもわかっている。自分がそばにいてそれを止めてやることはできないけど、自分のことだけはクライドは傷つけられないし、自分が無傷で彼の隣にいることが何より彼の救いだとわかっている。ボニーはそしてなにより、そうやって思いやり彼のそばにいても、「クライドのためのボニー」にはならなくて済んでいるんだ。クライドに傷つけられることのない強くて巻き添えにならないボニーは、ボニーそのものの強さだから。そしてクライドがボニーそのものを受け止めるからそうなっているのだから。「生きているのはクライドと私だけなの」はそういう意味のセリフだと思う。

 ボニーが夢をあきらめてしまうのが辛かった。いつ、彼女は女優にはもうなれないと気づいたのだろう。歌の中では夢を追ってと後半でも歌われるけど、本当にまだ追っていたのだろうか。ボニーは現実逃避をあまりしないし、たぶん自分達の逃避行に限界があることを分かった上でクライドの元に戻っている。あの喧嘩がないままだったら雑誌の表紙になったことを彼女はどう受け止めただろう。もうこのあたりから、女優になるための強盗・逃避行ではなく、クライドと生きるための逃避行になっていく。
 クライドがいればいいなんてことはないんだろうな。映画の話もしていたし、詩も書いていたし、歌いたい歌も持っている、彼女は自分の意思で「なりたいもの」を見つけていた。話を聞いてくれるクライドがいたら、この夢は叶わなくてもいい、なんてことは決してなくて、彼女の夢はただの寂しさが見せた幻なんかではないし、彼女はそこから、選んだだけだ。死ぬ可能性の高いその道を自分で選んだ。「バックは自分で選んだの」といった彼女も、夢を諦めることを自分で選んだ。それは愛の方が夢より尊いからとかではないと思うんだけど、誰よりもそれをわかっているのはクライドで、だからあの場で歌ってくれとボニーに頼むんだろう。
 こういう話で愛が何よりも優先されることを、私はすごく苦手に思っていて、選べなかったものに対して人はとてつもなく傷つくし、愛の美しさや強さを語るために根拠にされるべきことではないと思う。両方を選べない世界こそを、憎むべきなのだ。どうしてクライドは追い詰められる人生しか生きられなかったのだろう。そんな世界ではボニーはただ一つしか選べない。だからクライドの手を取った。愛が全てだからではないよ。この話はひとりの、強くて優しくてどんな酷い時代においても希望を持つことができるボニーという女性の、夢が破れた話でもあるんだと思う。



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