最近思ってることと、雪組の好きな人の話。

 私は宝塚が好きで、それは男役と娘役というはっきりとした「枠」を持つことで、むしろ自在になる面がめちゃくちゃあるからだと思う。定型がはっきりとある表現が元々かなり好きで(短歌とか)、何かはっきりとした型があってそれらに縛られ不自由に見える中で行われる、なによりも自由な表現の世界を清々しいって思う。私は特に、人が見せる定型に対する誠実さが、すごく好きなんです。宝塚は全て女性であるのに、男役と娘役に分けることで、どういう存在が男役で、どういう存在が娘役かの定義づけが行われている。「らしさ」を追求するってことでそれはもちろんとても偏ることなんだけど、でもこうしてくっきりとわけてしまうことで、その「らしさ」に対し、演じる側はすごく冷静な目を持つし、「なんとなく」がなくなっていくんだろうなと思う。細かなところまで意識的にらしさを追究するんだろうな。
 生まれた時から与えられている性別への鈍感さとは真逆で、自分が選んだその男役・娘役の概念に鋭敏で繊細であり続けて、そしてトップスピードで個人としてその概念にぶつかっていく演者さんが私はすごく好きです。それぞれに規定されている「らしさ」を外から押し付けられるものでも無自覚に受け入れてしまっていたものでもなく、自分から選んで、そして外へ放つものとして捉えること。娘役が娘役らしく振る舞うことも、男役が男役らしく振る舞うことも、圧倒的に「芸」であり「技術」で、無自覚なものが一つもなくて、それらを下地にして個人が個人として表現をするこの世界が面白くて大好き。はっきりとした「枠」があるはずなのに、むしろものすごく自由と、意識と、思考が生まれていると思う。自由ではある、あるけど、一つもなんとなくはなくて、一つも無自覚なことがなくて、全てが本人の意思によって積み上げられた「らしさ」なのがまるで緻密な工芸品みたいで、そこがとても見ていて心地いいです。そう、宝塚に出てる人たちの工芸品みたいなところが好きなんです。生きることでここまで研ぎ澄ませていけるんだなって思えるのが楽しいです。
 人が舞台で自分を魅せるときの、全てが見えていそうな、何もかもをわかってそうな、あの万能感というか、意識がすべてに行き渡っているキラキラした感じが、本当に好き。ただ偶然そうなっている、なんてことはすこしもなくて、すべてその人が自分で積み上げてここまできてるんだってわかるのが宝塚の面白いところだな、と思う。生まれつき男役の人も生まれつき娘役の人もいないもんな。私は多分、自分という存在を天に任せてない人が好き。これは宝塚だけでなくてなんでもそうで、天才とか生まれ持ったものとか、私はものを書くからあんまり信じてなくて、むしろ、人間が人間として自分そのものに集中して見せるときの輝きが美しいって思うし、定型ってそういう一瞬を生み出すためにあるんだと思っている。不自由さがあるように見えるからこそ、自分そのものにものすごく意識的になって、集中できて、そうして自分そのものを研ぎ澄ませられるのかなぁって。自分の理想を完全に直視できている人、というのを舞台で見つけられるとすごく嬉しくなったりする。
 「男役」「娘役」という型や思想があるからこそ、「無自覚なもの」「無意識なもの」がより減って、さらに繊細に「自分」を突き詰めて、そうやって人は唯一無二になっていくのかなって思う。
 ここからめっちゃ個人的な話をすると私はここ半年雪組の桜路薫さんがすごく好きで、それは多分「男役であること」がどんな良さにも真ん中にある人だからだと思う。ボニクラは作品全体がそもそもすんごいいいんですけど、ボニクラのダンスシーン、桜路さんがあまりにもどの場面もキレが良くて、しかも全部「男役として」キレがいいので、ほんと「男役」って生き物が本当にいるのかも知れなくてその人がそうなのかも!と思うぐらいばきっと存在しててあまりにも大好きだった。宝塚の人はみんな入団する前からダンスやってる人がほとんどだけど、生まれた最初から男役としてダンスをやってきたの?っていうくらい桜路さんのダンスは「良さ」が全部男役としてのもので、そういうのにいつも、宝塚ってすごい……と思う。すごいのは桜路さんなんだが。でもこういうあり方を作り出してるジャンルそのものがものすごいなとも思う。久しぶりに過去のショー作品見直してたら一瞬で目を引く荒々しくて勢いがすごくある、けど隅々まで宝塚の端正さがある踊り方をしてる桜路さんがいて「わーーー!!?!!」ってびっくりしてしまった。すごい。男役の人だ!って一瞬の動きでわかるや。桜路さんの男役って、ちゃんと「道」なんだな。茶道とか剣道とか、そういう「道」。(前もこんな話した気がする……でもやっぱそう思う)

 男役というジャンルというか、技術とその道へとめちゃめちゃまっすぐな向き合い方と、それが表現として個人の唯一無二なあり方に結実しているのがあまりにも硬派で好きで、私の心が宝塚という概念を好きな限り、桜路さんのことずっと好きだろうな……ってよく思う。だってあんなまっすぐに宝塚やってる人があんなにバシッて全てを決めてて他にいない舞台人になってるの、そんなの見てるだけで最高な気持ちになる。宝塚が好きな私は宝塚のあり方が好きで、男役や娘役という型のあの硬派でシビアなあり方を愛してて、だからその世界を真っ直ぐ自分の道にしてる人を見ると嬉しいのだと思う。あんなに男役を生きてる人を見ると、宝塚を好きな気持ちさえも認めてもらえたような気がして嬉しくなります。
 ボニクラのレストランの客のタイミングで出てくる桜路さんはスタンバイの時、カウンター裏で階段を出すのもやってるんだけど、それの固定器具を踏むところが既に客の挙動だった。あのお客さんならそうするわな……というちょっとだるそうな動きで足元だけ勢いつけながらバシッて踏んでてそれがとてもかっこよかった。(下手の方の席じゃないと多分見えないですが)前にシルクロードの映像見た時にめちゃめちゃ強いバネがダンスにあって、荒々しさに派手さがあってでもすごく細やかで端正で好きだなーって思ったの覚えてる。桜路さんは動きにためがあって、そこからバシッて決めるのがめちゃめちゃ男役でかっこいいしダンスとしてもそれが華になってて、そういうところが好きなのだと思います。このためのところは、群舞見てるとめちゃわかるのです……今回のフィナーレの群舞も桜路さんだ!!!!となるので幸せだったな。今回の作品はフィナーレも本編も振りが桜路さんの踊り方にすごく似合ってて。個人的にダンスが好きなのはシルクロードとNow Zoom MeのShe bangsとセンセーショナルNYの桜路さんです。あとオデッセイの黒燕尾とスペイン。

 宝塚を好きになってから少しずつ見えるものが変わってきてあの頃の作品を今見たらどう思うだろうとよく考える。でも多分今見てるものだって数年後には違う見え方をしているのだろうな。ボニクラ、本当に大好きだった。作品がまずとても好きで(またどこかで作品のことも書きたいです)、そして好きな人の役がすごく好きで、あと何度も書いてるけど最初の頃の場面で酔っ払いが久城さんと桜路さんなのが、本当にこの公演を愛する一つの理由だよ……。ボニーに絡む前に二人でいつも喧嘩しているのだけど酔っ払ってるからめっちゃもたもたしており、そのもたつき加減がリアルで、リアルなのに愛嬌があって、大好き。本当に好き。あれを見るたびに二人のことがさらに好きになってしまう。「酔っ払い」っていう場面のための刹那的な役なのに二人とも役としてとても愛嬌があって、人柄がちゃんと宿っているお芝居といえばいいのか……役は「役割」だけでなく「人」なのだと私は思うし、この一瞬の場面だけで二人の酔っ払いのことが忘れられなくなるから、その鮮烈さにめっちゃいいな〜!って一回休憩もらって外で叫びたい気持ちになります。私はこの二人が出てる舞台はたくさんチケット探すって決めてるから今回もたくさん見たし、見るつもりでいてよかったなって思っている。こういう場面でも役そのものに愛らしさがあって、場面の要素で終わってないのって、二人を見てると自然なことなのかなと思うけどたぶんそうじゃないのだろうな。

 久城あすさんの牧師は回数を重ねてみるごとに「神様」というものの代弁者というより、そういう役割の「人」なんだなぁって思うようになった。この時代の聖職者ってどんな感覚なのだろうか。前回のnoteにかなり書いてはみたけれど、生きている人としての牧師の姿ってあまり作品に登場せず、でも同時代に生きる人による歌だ、と感じるのが不思議だ。久城さんの清廉でいて、生命力のある歌声だから可能になる表現だろうなぁと思う。神様と人の間にある声というか……。アメリカ社会の当事者としての牧師の歌声だった。洗礼をするときも、洗礼した信者を葬るときも、同じように神様を信じて歌う聖職者で。人らしさが残っているからこそ、この二場面で変わらずにいることが、神の無力さというより、歌い続ける聖職者の「人として」の強さに見えていたりする。ボニーとクライドとバックは死んだけど、そんな苦しい世界だけど生き抜いていく人もいて、その人のためにもこの人は歌うんだろうなって思う。

 本当にいい公演だったなぁ。あと、私、職業が詩人なので「私は詩人として有名になるの!」のボニーの言葉に一人でアワワ(真っ青の顔文字)って気持ちになるのどうにかしたいです。ひとり、現地で独特にあわててしまう。ボニー、かわいい子。かわいい子だよ……願わくば自分が詩人であることを忘れて見たいです……(独特な願い)。
 もうすぐ千秋楽ですね。さみしいけどここまで来れたことはうれしいな。