雪組「BONNIE&CLYDE」感想


「信じるものは救われる」という言葉があるけど、信仰心というものは鏡のようなものなんじゃないかって、この作品を見ていて思った。礼拝シーンに対する印象は多分日本の客と、アメリカの客で受け取り方がかなり違うんじゃないかなぁ。そしてクライドやバックと、他の礼拝に来た人々とでも全く違う。最初から信じるつもりがなければ、教えはうさんくさく聞こえるし、くだらなく見える。信じたいとすがるほどに、それらは偉大な頼もしいものに見える。ブランチが見ている「信仰」と、バックが見ている「信仰」は全く異なる。多分こうした差に気づいているのはボニーくらいで、バロウ兄弟にとっては神はそもそも考える価値もないほどの存在となっていたのだろう。だから、彼らに神は何ももたらさないのだ。
 「救い」とはなんだろう。神様は何もしてくれなかった、それはブランチにとってもそうだ。でもブランチは最後まで神の歌を歌った。それはブランチが愚かなんだろうか?盲目的なんだろうか?ほんとうに?彼女が夫に最後まで希望を伝えられたのは、強く強く愛を貫けたのは、彼女にとって神は偉大で、そして偉大に見えるのは、彼女の信仰が強く、揺るぎないものだからだ。彼女が死んでいく夫を支えながら、最後まで彼女らしく夫のために言葉を伝えられたのは、彼女の折れそうな心を彼女の信仰心が支えたからだろう。神は何もしてくれない。でも、神を信じる心が人を支えることは確かにある。

 不景気で仕事がない中で、「盗みはいけない」と正しく生きることを諭す牧師(久城さん)は、「信じること」「善良であること」の意味のなさをそれでも貫く人にだけ見える光のように感じる。ブランチの意志の強さを支えるように美しい歌があって(本当にずっと歌が良すぎて歌が……良すぎて……)、人はどうして善良さや正しさをあそこまで信じるのか、それは本当にくだらないことなんだろうかと考えてしまう。バロウ兄弟にとっては正しさに縋るなどこの世では意味のないことで、もう奪うか奪われるかしかない世界なのだろうけれど。でも、そんな世界だからこそ善良に生きていたいという人間もやはり大勢いるのだ。それは愚かなのでもなく、偽善なのでもなくて、自分自身の心をそうやって守るんだと思う。誰かの幸福を祈り続けるために。自分が他者を傷つけてしまわないために。自分が自分を愛し、いつまでも他者を愛する勇気を持つために、そうやって善良さを守ろうとする。ブランチはバックの代わりに祈り続け、だからどんなに手を汚しても、バックはブランチを愛し続ける勇気を持てた。信仰とはそういうものだと思う。人の意志を支えてくれるのが「神」であり、正しくあれと人に命令するのが「神」なのではない。
 久城さんの歌は美しいし教えのような歌詞も多くあるけれど、本当に当たり前のことしか言ってはいない。それでも美しく絶対的な存在がそれを改めて断言してくれるだけで、踏みとどまりたい人の支えになる。盗みはいけない。そう、伝えてくれるだけで、道を踏み外したくない人のぎりぎりの心を守ることがある。(だから、美しい歌であればあるほど完璧で、とにかく良い場面だったな、あの歌の力がすべてという演出の中で本当に歌が全ての場面として完成していて、かっこよかった……)
 あの言葉の強さが、けれど報われない人々の反感を生む。憎しみを産むこともある。でもあの場で牧師は、いつまでも真っ直ぐ、はっきりと「盗みはいけない」と言わなくてはいけない。それを待つ人がいるからだ。「盗まなければ飢え死にするんだ」と言われても、「盗みはいけない」と言う役割が宗教なんじゃないかと思う。

 1幕の洗礼のシーンで、聖書を持ち礼拝に頻繁にきているだろう人々の中で、一人所在なさげにしている人を桜路さんが演じていて、このお芝居がすごく好きで、桜路さんを好きでよかったなぁと思って見ていた(桜路さんのこういう民衆の中のお芝居とか、レストランの客の芝居とかそもそも大好きなので(私は桜路さんのファンです)今回それがたくさんあってその時点でだいぶ幸せ公演だった)。この場面で桜路さん演じる民衆の男は居心地が悪そうに教会の隅にいたのに、意を決したように帽子を脱ぎ、そして少しずつ牧師の方へ近づいていく。礼拝が日常ではない人。勇気を出してこの場に来た人だ。
 正しくなれない人を罰するのではなく、ここにある「宗教」は罪を赦すためにある。それこそ、バックの自首の前の洗礼なんて、まさにそうだった。罪の意識がある人が、清廉な空気の礼拝に現れ、そしてその偉大さ(歌の)に支えられ少しずつ「善良さを取り戻す」勇気を得ていく。信仰は正しい人間にご褒美を与えるためにあるのではなく、自分は正しくないと思っている人間がそれでももう一度立ち上がろうとするとき、その勇気を讃え、支えるために存在している。納得できないまま洗礼を受けるバックや同時進行で犯罪を重ねるクライドとは全く違う「罪の意識と信仰」が桜路さんの民衆にあって、それがとても効果的で桜路さんを軸に見ていてよかったなぁなんてことを思った。バロウ兄弟はブランチのような敬虔なクリスチャンとの対比だけでなく、こうした「罪の意識がありそれでも信仰のおかげで立ち上がることができる人」との対比でも多くが描かれているんだろう。神は救ってくれないと彼らは言う。でも、彼らが神に求める「救い」は神がもたらすものではない。真っ直ぐに生きようとする人のその人自身の勇気を支えるのが「救い」で、そのつもりのない彼らには神の「救い」など見えないんだ。

 ボニーの母親が夫のことをクライドに話した時、静かに夫の安らかな眠りを祈るその手が、2幕でボニーたちと合流したブランチが、ボニーの前で祈りを捧げる場面の手の動きとよく似ていた。ボニーは母親の祈りに対しては、少し諦めたように組んでいた自分の腕を下ろして黙って見つめているだけだが、ブランチには「でも神様がくれたのは荒れ果てた土地よ?」と言う。だから、本当は母親にも何か言いたいことがあったのではないか、と思うけど、彼女は多分母のためにずっと言ってこなかったのだろう。
「ママに嘘をつくことよりひどいことがある?」ボニーの母親の言葉。本当に……「あるやろ!」と叫びたくなるがボニーはそんな母親の言葉に従い正直になる。ずっと見ていて思ったのだけどボニーの父親って本当に完璧な父親だったのかなぁ。そういうことになっているだけではないかな……もう誰もそこに立ち入れない聖域になっているだけでは?人並みにはだめなとこもあって、普通に困ったところもあったかもしれないし、でも全部そういうのは無かったことになっているのではないか……なんて思った、これはただの想像だけど。母親には母親の信じているものがあり、ボニーは母親の世界を邪魔しないように生きている。それは彼女の優しさで、子供時代のボニーには見えない「大人」の側面でもある。子供時代のボニーは、たぶん母親が自分とは違う人間で別の世界を見ているということを知らなかったのだと思うし、たぶんまだ親離れしていなかった。でも、大人ボニーと母親は、ボニーは親離れをすでにしていて、母親は子離れできていない。その事実にボニーは気づいていて、母親は気づいていない。ボニーは大人として、母親をそっとしておいてやっているように見える。
 だから、私は悪い子なのと歌うボニーはやっと「母親のためのいい子」をやめたボニーであり、そしてここまで苛烈な選択をしなければ母親から離れられなかったという点に、彼女の優しさが滲み出てもいる。どうしても母親が納得しない生き方、選択、恋人。そこまでして、誤魔化しきれなくなってやっと彼女は母親のためにいい子でいることをやめられた。自首してほしいと願う母親と、それを置き去りにするボニーの姿は悲しい。ボニーは自分が変わったとは思っていないし実際変わったわけではないのだけど、母親からしたら娘はきっと豹変してしまったように見えたのだろう。何でも話してくれたボニーはいなくなり、必死の説得もクラクションの音一つで終わらせて去っていく娘。たぶん、母親はボニーも今でも父親のために祈りを捧げていると思っている。でもボニーは、死んでしまった父親にそこまでのことはできない、と思っているのではないか。ブランチの信仰心に対して「神様がくれたのは荒れ果てた土地よ?」と言う。ボニーとブランチは、本当ならボニーが母親としたかったやりとりが詰まっているようにさえ思う。

 パパが死んでしまったから私たちは苦労したんだよ?と、ボニーは決して母に言えない。でも、彼女にはその気持ちがあったのではないかって思うのだ。
 バックがブランチに対して、信仰心や神に対して否定的なことを言うのとは逆で、ボニーは母親にそうしたことを一切言わなかった。彼女は多分、母親が見ているものも母親の中では真実で、自分が見ている神の信頼のできなさを、母親に共有することは不可能だとよくわかっているのではないか。ここまで母親の子離れのできなさを書いたけど、母は母なりに子供を見守ってもいて、普通に生きていくなら、母とボニーは何の問題もなく生きていけたのではないかって思う。ボニーは母と自分が見ているものが違っていることを受け入れて、それでも母を尊重していただけだ。信仰心は鏡みたいなものだって書いたけど、たぶん、ボニーはそれに気づいている。強く信仰をする人たちにとって、「神様」は頼もしく縋りたくなるもので、信仰心を持てない自分が見ている「神」とは全く違うのだ。神そのものが無力なのではなく自分がそれを信じられないから無力に感じるのだと、ボニーはそこまでわかっている。だから母のように信じることはできなくても、母の信仰を彼女は否定しない。とても優しく、頭のいい人だと思う。

 テッドの言うことはだから、間違ってないんだろうな。ボニーは成績も優秀で、いい子なんです。そう言っていた彼が「いい人なのにどうして撃ったの」と言われる。「いい人なんだ(見逃してくれ)」と言われる。彼は自分の言葉を信じてもらえなかったことをなぞるように、他者の言葉も信じないが、でも同時にボニーのことをそれでも救いたいと願っていた。いい子だから好き、ではないのだ。テッドは必死で庇おうとしてその言葉を選んだが(そしてそれは真実でもあるのだが)、いい子だから好きだったわけではなかったのだと、ボニーが自分に正直になっていくごとに彼も気づいていったのではないか。どこまでも逃げる彼女を助けようとする彼は、だからこそ他者の言葉にも動じないんじゃないか。自分のエゴとしてボニーのことを助けたい。ボニーがいい人だから助けたい、のではない、ということに彼は彼女に裏切られるたびに気づいたのではないか。
 あなたはこんな素敵なのにどうしてこんなところにいるの?というブランチの問いかけに「どうしてあなたはここにいるの?」と聞き返したボニーの言葉を思い出す。あれは「クライドを愛しているから(あなたもバックを愛しているからでしょ?)」という答えの代わりの問いかけだった。テッドはボニーがいい子だから庇いたいのではない、ボニーを愛しているから庇いたいのだ。彼は、だから、ブランチが「いい人なのにどうして撃ったの」と聞いた時、それがただただブランチがバックを愛してるから出た言葉なのだと理解しているはずだった。いい人だから撃ってはならない、という言葉のままの意味ではなくて。テッドはあのとき、誰よりもその言葉に「愛」があるって気づける人だった。

 ボニクラめちゃくちゃよくて、幸せでした。こうしてダラダラと感想を書いてしまいましたが3分の1くらいは桜路さんのバイト芝居がたくさん見れて心が100000点満点!みたいな気持ちでした。ツイッターにも書いたけど、ほんとにダラスにきたボニーが「悪魔の裏口」とか言うときに絡む酔っ払いが久城さんと桜路さんなのが「いいなー!!!」ってなったという記憶に埋め尽くされている。そんないい街が他にある?引っ越したいですが……?この世で最も最高の酔っ払いコンビじゃん。桜路さんは最初の葬式の牧師とレストランの客とこの酔っ払いでかなり間髪入れずに別人になっていくのだけど表情があまりにも全部違っていて、全部めちゃめちゃいい……桜路さんはお芝居が全部男役として徹底して作られてて、どの役もバチッて男役の美学にはまっているのが好きです。レストランの客役は毎回ずっとボニー見てる桜路さんをずっと見てる観客、という強めの構図になってしまう。私→桜路さん→夢白さんです。(何)ボニーをじっと見てるのもいいんだけど琴羽さんの店長と話してる時のボニーの方を見たいんだよ…と言いたげな話を聞き流してる感じがとても好きです。でも桜路さんはこういう役しても、あんまり不快な後味を残さない(のに嫌な客だという印象を残す)のでほんと宝塚のお芝居としてバキッと完成しているんだなぁと思う。
 個人的に2幕の牧師の歌のところが好きだった。1幕の礼拝の男性とはまったく別の人として民衆の男(桜路さん)がいるんだけど、いろんな人に話しかけるのにものすごく孤独が付き纏っている人で、簡単に他者と心を開くことができない当時の社会のひりつく空気を作っていてよかったなぁ。アメリカって歌詞のところで桜路さんが客席を指差すのですがそこに直撃したことがあり、私はその日アメリカでした。アイムアメリカ 私こそがアメリカ。ごめんな……不景気で……。(アメリカとしてのコメント)禁酒法のアメリカの頃の雪組ってなんでこんなにいいんでしょうね。ずっと見てたい。酒を禁じてたい。あの頃のアメリカの女性のファッションがすごい雪組の娘役さんに似合うんだなぁ。あのあとグロッサリー店で一気にコミカルめになるお芝居もよくて、アメリカの苛立ちとして概念のようにあった民衆のシーンから、一気に人々の生活のところまで描写が変わるのがお芝居でよくわかっていいなー…と思う。桜路さんは本当にずっといいな……。ハマーは声の作り込みが凄すぎて、最初見た時びっくりしちゃった。
 桜路さんは男役としてどう魅せるかというところがすごくはっきりと出たお芝居をいつもしていて、「自分という男役」というより、その役として「男役」がどうあるべきかが追究されてて結果的に、役それぞれが別人のようになっているのが好き。桜路さんを見てると、「宝塚が好き」という私の気持ちがひたすら報われていく感じがして宝塚のお芝居を見ているのが幸せになる。

 フィナーレは究極の出来栄えだった。落ち着いたふりしてるけどフィナーレのこと思い出すと心がおかしくなります。なんか100場くらいなかった?フィナーレで。気のせいか……。エンドレスで最高の場面があってハッて気づいたら100年の時が経ってそうだった。雪組が好きでよかったなぁ……雪組ってかっこよくて素敵でしょう、とものすごくポジティブ伝えてくるフィナーレで、このタイミングでこれが見られて私は幸せ者だなと思う。私はトップ娘役さんを男役さんが囲んでいる場面が好きで、そのときの桜路さんがあまりにも大好きなのですが、今回もそれが見られて幸せだった。ギラギラして、ギラギラに忠実すぎるのに宝塚の枠組みの中にあって、芯に品があって好き。ずっと書きそうだからこのへんにしておきます……。

 配信を見てください(結論)