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「火山ガスが発生して場所によって危険なところもあります。八甲田山の話」


最近、八甲田山を震源とした地震があり
そう言えば八甲田山は活火山だったと思い出しました。

今日は八甲田山のお話です

青森市の山と言えばやはり八甲田山ですね。

でも、八甲田山と名がついた単独峰は存在しないそうです。
八甲田連峰というのが正しいそうですが
多くの人は通称として「八甲田山」といいます。

青森市の南側にそびえる日本百名山 の一つ八甲田山

八甲田山は気象庁によると活火山とされていて

過去の噴火活動として
最近まで6000年間に
少なくとも8回の噴火活動があり、
4回が大岳山頂部、1回がおそらく大岳からの噴火、
そして最新の3回は大岳南西麓の地獄沼での噴火らしく

いまも酸ヶ湯から地獄沼付近にかけて複数の噴気孔が点在
特に地獄沼では活発な噴気活動が続き火山ガスが噴出してて

こう言った火口からは突然
火山灰、噴気、火山ガスなども噴出する可能性もある
と言われています。

自分も酸ヶ湯に行った際に
地獄沼から降りたところの
まんじゅう蒸しを見学に行ったのですが
地中からガスが出てたところに
石が置いてあるだけだったのを見つけビックリした覚えがあります。

こうした火山ガスで実際
自衛隊のレンジャー隊員の方や、山菜取りの方が事故でなくなっているんですよね。

八甲田山に行ったら観光ルートの身近にも
こういったところがあるのでほんと危険なので気をつけてください。

さて八甲田山というと

昔映画にもなったので
多くの人が思い出すのが
青森第五連隊の真冬の遭難事故

なんとなく八甲田を見てると
僕は心の中
その事故を想うんですよね。

その事故は
1902年の1月23日出発の青森第五連隊の雪中行軍

最初の救助隊が生存者を発見するのが1月27日だったそうで
その捜索に延べ1万人が動員されたといいます。

この行軍事故によって
遭難した将兵の数は199名(諸説による)
そのほとんどがご遺体で発見
17名の生還者のうち四肢健全だったのは3名のみだったそうで

雪と寒さに慣れた北海道のアイヌの人たちも捜索にあたっています

銅像になった後藤房之助伍長ですが
大滝平の中で雪の中
失神したまま立っていたのは広く知られる話です

蘇生された彼が語った言葉は

“みんな死んだ”

という言葉

捜索は

遭難兵士の最後のご遺体が発見されたのが
初夏も間近な5月28日

八甲田行軍遭難事故は世界最大の遭難事故とも言われています

でも、何故
行軍を真冬に実施する必要があったのでしょうか

それは、当時
日本とロシアの仲が悪くなっていき
戦争の際、三沢、八戸から
ロシアが上陸してくることが想定され

決戦は三本木原となることが予想され
日本軍は夏冬を問わず
八甲田を越え軍隊を送る必要性があったからなのだそうです。

遭難した八甲田行軍の他に
実はもう一つの八甲田行軍がありました。

それは弘前31連隊による雪中行軍です

青森5連隊が1泊2日なのに対して
弘前31連隊の方は11泊12日という大規模な行軍でしたが

参加者は37名、こちらは一人の犠牲者も出さず
弘前から真冬の十和田、・八甲田をグルリと周る約210キロの行軍を成功させています。

前代未聞の長期雪中行軍の偉業ですが
5連隊遭難事故があまりにも衝撃的だったので
その影に隠れてしまいました。

陸上自衛隊で今でも
冬季八甲田雪中行軍は毎年行われますが

その訓練は先ずは幸畑陸軍墓地の慰霊から始まります。

もともと幸畑陸軍墓地は
陸軍の軍人墓地だったので、
事故の当時も
雪中行軍出発前に
雪中行軍成功祈願のため立ち寄ったのですが
その兵士たちが、
自分たちが墓標に刻まれることになるとは
夢にも思わなかった。そう思います。

この遭難で生き残った兵士たちの墓碑もあります。 

この墓地に数度訪れたことがあります。

ちなみに私ごとですが
実際冬の八甲田のこの訓練に参加したことがあります。
重装備とはいえ、冬の八甲田の天候は厳しく想像を絶するもので
遭難当時のことを思うと壮絶な事故であったと今も思います。

尚本文は以下の書籍を参考により作成

青森の歴史/青森市刊
八甲田物語/小沼幹止
青森市の歴史散歩(よしのや本間書店)

記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)

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