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冒険家でもあった2代目 青森市長 笹森儀助の話



探検家として有名な写真がある。

草桂を履 き、首からクパの葉で、作った沖縄独特の団扇を下 げて、なぜかそれにコウモリ傘

暑さの せいで裾(すそ)を端折(はしょ)っていますが、
足を見ると虫に刺されてずいぶん腫れています。


この人物、ただの探検家ではなく
後の青森市長にもなる

『笹森儀助」

生まれは弘前

笹森儀助は

青森県弘前の士族の家に生まれ
日本中を旅行し、
北海道の千島探検の記録を出版
天皇に奏上されるほど評価を得ています。

探検というと植村直己さんのようなイメージですが
当時は明治の新しい時代になったばかりで
日本国内の状態はもちろん、あちこちに近隣の国との状態が不安定で
それを危惧、
いわゆるいわゆる憂国の想いで出かけたと言います。

話が戻りますが

千島探検後時の内務大臣から、
沖縄の調査を依頼され、沖縄探検に出発する。

ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だったそうです。

そして現地で、笹森が眼にしたもの

それは厳しい自然だけでなく、
人頭税という重い税に苦しむ人々の姿でした。

人頭税というのは

米で納めさせられる税ですが、
稲作に向かない地域の人でも、貧富の差も考慮されず課せられる税で、払えない人は強制移住させられ、奴隷のような扱いとなる前時代の制度でした。

明治に入っているのに、日本でありながら、沖縄だけが人頭税を要求され、マラリアにも苦しめられていたのです。
 
貧富を問わず要求された人頭税

笹森は、沖縄の現状を訴えるべきか悩みます。

結果、笹森は、自分の危険を省みず、1冊の本を出版し、憎むべき人頭税を廃止に導いていきます。

その様子をまとめたのが『南島探験』という書

この書は「沖縄の民情を詳しく、正確に伝えている」と、高い評価を受け。

そして、さらに現地の責任者に抜擢され沖縄に命を捧げ、貢献していくのです。


儀助はこの後、台湾や朝鮮半島へも探検旅行に出ています。

その後、いろいろ役職につきますが
体調も崩したこともあり
青森に帰ってしばらく休もうとしたそうですが

初代市長・工藤卓爾の推薦などもあり、第2代青森市長に就任しています。

当時青森市は税金の未納問題があり
コレを笹森儀助に託したのでした。

結果市の職員が複数で使い込みしていたことを突き止め、市の多額の税金未納問題を解決しまs。

その後笹森儀助は
商業都市青森には専門の教育機関が必要だとして、私立青森商業補習夜学校(現・青森県立青森商業高等学校)を設立。

同校の初代校長にも就任しています。

1903年(明治36年)12月13日、市長を辞任。
その後は五十九銀行の監査役を務めるなどし、1915年(大正4年)9月29日に死去。70歳。

墓所は弘前市新寺町の西光寺にあるそうです。

写真転載記事参考
http://www.aomori-ch.asn.ed.jp/gaiyou/images/2018/gisukesyoukai.pdf

記事編集/鈴木勇

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