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【読書録】大好きなほんを探して⑥(2021.6)


文芸書の発売を待ち焦がれるっていう経験が、これまでそんなになかったんですが、今月は2冊、そういう本があった。

・阿部和重『ブラック・チェンバー・ミュージック』

・滝口悠生『長い一日』

あいにく、どっちも発売日が6月後半だったのでまだまだ読み切れてないけど、さっそく阿部和重から読んでます。2段組で450ページぐらいあるからまあまあ時間かかるかもですが……

角川ホラー文庫あさったり、保坂和志のむかしの本amazonしたり、積読棚があふれそう。


①『文芸ピープル』辛島デイヴィッド(講談社)

欧米で広く読まれる、日本の現代文学についてまとめられた本書。

この本のなかでもずっと取り上げられていることだけど、村田沙耶香や松田青子、柳美里、川上未映子が米タイムズ紙「2020年の100冊」に選出されたりしてる。

マジでリアルタイムの日本文学(それも女性作家の)が、新しい注目のされ方をされているよ、ということをいろんな角度で語ってくれる本だった。

まずおもしろいのは、日本の現代文学の読まれ方が、国外でどのように変遷しているかがきちんとわかること。

例えば、アリソンは「翻訳されている日本文学は、英語圏の読者がquirky(奇妙な/奇抜な/風変わりな)だと感じる作品に偏る傾向がある」と指摘する。英語圏の出版社や読者が日本文学に「奇異さ」を求めているようだと。 / デビッドも「quirkiness」への関心が高いのは『コンビニ人間』の英訳の表紙で取り上げられている評者の賛辞を見ても明らかだという。確かに、ハードカバー版を見ると、「quirky」、「odd」(奇異)、「weird」(奇妙)などの言葉が目立つ。ジニーも取材などでこの点についてよく聞かれたと言う。でも個人的には「『コンビニ人間』の主人公はquirkyだとは思わない。社会にはとても奇妙な側面があることに気づかせてくれるけれど、彼女は社会に居場所を見つけようと一生懸命生きているとてもリアルな人物だ」と。(p.18~19)

長くなったけど、わかりやすいところを引用してみた。つまり、(悲しいことに)日本の文学は、これまではぶっちゃけ亜流として、「おかしなもの」としての魅力をたたえられる傾向にあったわけだ。

しかしその認識も変わりつつあることも、同時にこの抜粋部分からうかがえる。村田沙耶香『コンビニ人間』の主人公はたしかにものすごいインパクトがあるが、それが「イっちゃってる人」として片づけられるのではなく、現代世界の世相に照らし合わせ、自分事として読まれはじめてもいる。日本文学に対するそういう態度も生まれてきているのだ。

加えて、実際に海外の版元で、日本文学の翻訳書を出している編集者が多数、インタビューに応じているのもおもしろい。松田青子「おばちゃんたちのいるところ(where the wild ladies are)」の英訳を出版するにあたり、候補の5つの表紙からどれにするか選ぶ過程など、細かいところまで丹念な取材が行き届いている。

日本文学に向き合い、その可能性を感じている編集者が、海外にも一定数いるわけだ。これは、まあ英訳本が出ているかぎり当たり前のことではあるけれど、そうやって日本文学の出版のために、一人一人が尽力する姿を垣間見るとなんだか嬉しくなる。

上記の4名のほか、小山田浩子などにも焦点が当たっており、本当にピンポイントでここ10年位の日本文学に焦点が当たっている本だ。文学はオワッタとか、日本の文学は世界に見放されているとか、そういうことを言う前に一読したい本だと思う。可能性は、浮き沈みを繰り返していたとしても、決して消えてはいないと思えた。

小川洋子や村上龍などの小説の役者としても知られる日本文学研究者のスティーブン・スナイダーは、英米の編集者が長年「次のムラカミを探していた」と指摘し、これを「お国にもっとあなたのような方はいませんか現象」と読んでいる。(p.134)

この現象がなくなれば、もっともっと状況は良くなるのでは……笑

②『侏儒の言葉/文芸的な、余りに文芸的な』芥川龍之介(岩波文庫)

ぶと、「きちんと文芸について考えたいなあ」と思って、「そうだ、芥川のアレ、読もう」と思って買ってきた。

谷崎との論争の経緯が知りたいとかは別に思ってなくて(なんか谷崎にあんまり手が伸びない)、ただ、後期芥川の文芸に対する姿勢を知ってみたかった。

芥川らしく、高尚な単語もけっこう目についたりして、近代の作家だなあ……と、なんだか改めて思ったりもしたけど、透徹した視点は決して古びていないのがすごい。

僕は大英博物館に一人の東洋学者のいることを聞きかじっている。しかし彼の漢詩の英訳は少くとも僕ら日本人には原作の醍醐味を伝えていない。(中略)ピカソは黒んぼの芸術に新しい美しさを発見した。けれども彼らの東洋的芸術に――たとえば大愚良寛の書に新しい美しさを発見するのはいつであろう。(p.191)
批評や随筆の流行は即ち創作の振わない半面を示したものである。(同p)
いやしくも娑婆界に生まれたからには何びとも「人生の従軍記者」になることは出来ない。人生は僕らに嫌応なしに「生活者」たることを強いるのである。(p.203)
元来東西の古典のうち、大勢の読者を持っているものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事実上短いものの寄せ集めばかりである。(p.208)

文化の翻訳、東西の壁、創作への態度、創作物の好まれ方の実際。ここに引用したのは、僕が気に入ったものだけだけれど、どれも断定的な口調でスパッスパッと言い切る。それが真実味を感じさせる。

前半に収録されている「侏儒の言葉」のスタイルと相まって、「文芸的な、……」のほうも、まるで箴言みたいに、ナイフみたいに迫力満点で、芥川の思想が切り込んでくる。

迫力はあるけど、けっして嫌な感じはしない。読みながら、ピンと来るところを追いかけることに必死になれる。

芥川の文体って、やわらかくてとっつきやすい方なイメージだったけど、そしてそれは間違ってなかった気がするけど、やわらかい布に包まれたナイフの切れ味が、いやに心地いい。そんな感じだった。付箋だらけになりました。

③『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹(新潮文庫)

阪神淡路大震災後の日本をテーマにした短篇集。

なんだかんだ初めて読んだ。やっぱりスイスイ読み進められる文体で、ユーモアも軽快で大好きだな~と思いました。どの作品も好きだけど、やっぱり最後の「蜂蜜パイ」は、ほかの村上作品とも広くリンクを張ることができそうで興味深くて、いちばん心に残った。

2年くらい前に、新宿武蔵野館でやってた「ドリーミング村上春樹」では、このなかの「かえるくん、東京を救う」がひとつのモチーフになってたよね。

海外で評価の高い作品だということは知っていて、単純にこの短編の中で出来がいいからなんだろうな、と思ったけど、一読して、「かえるくん」だけが突出してすばらしいという感じは受けない。

なぜだろう、と考える。

この作品は、かえるとみみず、地下での戦闘、そして地震……などなどがモチーフとして現れる。日本らしさのなかにただよう「quirkiness」と、ムラカミらしさがうまく織り交ぜられた作品だと、英訳を読んだ海外の読者は思ったのではないだろうか。だから受けたのではないか。

きっと、かえるとみみずを中心に据える発想自体がquirkyなもので、そこに「異世界でのバトル」みたいな、村上っぽい要素が入ったことで、海外の村上ファンの心(≒日本文学に潜在的にquirkinessを期待している)をつかみやすかったのではないだろうか。

そう考えると、やっぱりどこまで行ってもqurikyだのoddだのweirdだのが求められていくのか、という気がしてうんざりしてきた。

グローバル市場で一国の文学を売り出すためには、なにかそういうわかりやすい指標がないとダメなんだろう、ということは想像がつくのだけど、自国内のリアクションと海外のリアクションがあまりに異なるのは、そしてそれが単に翻訳の出来不出来に起因しているわけではないのなら、なんだかもどかしい。

ともあれ、もっと早く読めばよかったな。「ドリーミング村上春樹」より前にこっちを読んでたら、映画の見方も変わったかもしれない。

④『芽むしり仔撃ち』大江健三郎(新潮文庫)

「大江が読みてえ」という気持ちがなんか来た。

大江が読みてえ、というのは、たぶん、「重たくて辛いけど、読み終わったあとバキバキの充実感がしっかりくるアレがほしい」ということのはず。

「芽むしり仔撃ち」を買ったのはなんとなくだけど、著者最初期の長編、いざ読んでみると「うわ、さすがだな……」と思ってしまった。

都甲幸治が『「街小説」読み比べ』で、大江はデビュー作が「死者の奢り」で、初めから死者という圧倒的な弱者(自分からは何もできない立場にある人)の側について作品を発表していたことは、文学者としてとても優れたことに見える、と書いてたけど、「芽むしり仔撃ち」でもそんな感じがある。

主人公は感化院の少年たちだ。村人からは蔑まれ、親たちからもほとんど見捨てられた身寄りのない少年たち、つまりどんだけ粋がっていてもメッチャ弱者なひとたちを主人公に据えている。初期大江の文学的態度って一貫してるなあ……と思う。

終戦間際、感化院の少年たちは、なぜか疎開先の村に閉じ込められてしまう。村の大人が誰もいなくなるのだ。理由を探っていると、それがこの村で疫病が流行っているからであることが分かる。

「俺は戦争をしたいし、人を殺したいな」と南がいった。/「君たちの年齢ではわからない」と兵士がいった。「そして突然わかってしまう」(p.124)

自分たちだけで一国を得た興奮。疫病を乗り越え、生き延びなければいけない不安。愛するものを失ってしまう絶望。あまりにもたくさんのドラマが詰め込まれていた。

重厚な文体はけっして「エンタメ」と呼ぶことを許さないだろうけど、展開の鮮やかさはほとんどエンタメさながら。自分もその村にいる気になって、ぐいぐい読んでしまう。

大江健三郎、やばいのう……

⑤『ヒッピーのはじまり』ヘレン・S・ペリー/阿部大樹訳(作品社)

原著は1970年の『The Human Be-In』。1970年ということは、ヒッピームーヴメント全盛期のちょい後、という感じか。

いまとなっては、「オレ、『オン・ザ・ロード』好きです」「ああ、ケルアックね……」的な会話を、たま~~~〜〜~にする感じで、ヒッピーカルチャーはもちろん知っているけど、さほど身近ではないというか、「むかしのこと」として、もはや教養として認識していたし、ヒッピーについてなにかを聞いたり読んだりするとき、それはいつだって「むかしのこと」として感じていた。

この本は原著の出版年からもわかるように、そういうヒッピーカルチャーとの距離感が、えらく近い。まったく、ちかごろ手ごろに手に入るヒッピーの情報とは、合わせられたピントが大違いなのだ。

著者のヘレンは、自らもヒッピーのコミュニティに突っ込んでいき、又聞きではない、生のヒッピーの姿を描いている。同時代の出来事として、ヘイトアシュベリーを舞台に、その黎明期から描き続けている。

出展者が順番に報告する段になるとクリスチャン・サイエンスのブースを出していた女性が立ち上がって「広報誌は”大丈夫な人”だけに配ったのですが、それでも全部、頒布できました」と言った。耳を疑った。広報誌を渡されたということは、私は「大丈夫な人」に分類されたのか?(p.20)

このときに感じた違和感が、著者がヒッピーの世界に染まっていくきっかけだったと言う。

この時代の、(異質な)他者に対する一般的な態度が垣間見えて、印象的だった。これが普通だったんだろうなと思った。そんななかで、当然の塩対応に強烈な違和感を感じることができた著者はとても勇敢で、50年後に日本語で訳されるこの本を著すにふさわしいよなあ、カッケェなあ……と感じ入る。

ヘイト・アシュベリーの若者たちを、著者は公平性を忘れない立場でありながら、やさしく見つめる。

ヘイト・アシュベリーの若者たちは、抑圧された人々の方がよほど倫理的じゃないかと考えるようになっていた。大きな車を乗り回していながら外の世界にちらとも目を向けようとしない人間と比べれば、なおさら。無邪気な人たちは世界中のありとあらゆる価値体系を生真面目に、陽のもとにずらりと並べて見渡した。(p.139)

それまでのアメリカを作ってきた大人たちが溺れていた、所有欲や、財産欲など、即物的で俗っぽい欲望に、真正面から、それでいてつかみどころのない態度で批判を加えたのがヒッピーだった。誤解されやすかったであろう彼らの態度を、考えを、やさしく掬いあげている。当時すでに50代だった著者だからこそ持ちえた視点だったのか、という気もするが、いずれにしても、50年後に読んで違和感のない視点だからすごい。

それから、ヒッピーのことに加えて、60年代当時の社会のすがたを伝える箇所でも、意外な視点が多くておもしろい。

私を含めて、それより前の世代は映像の棺《ピクチャー・ボックス》に圧しつけられることがなかった。しかしある時期以降、この棺は、家族や学校にさえも置かれるようになり、子供たちは逃げ場をすっかり奪われてしまった。(p.70)

当時の子供たちにとって、「テレビ」はわくわくのつまった夢の箱であっただけではすまなくて(そもそもほんとうに「夢の箱」だったのかも怪しいところなわけで)、好むと好まざるとにかかわらず、自分のことを情報の洪水に飲み込んでくる、強制的な装置だったわけだ。

行動をするように仕向けながら、同時に無力感をも叩きこむ。テレビの功罪が、時代性をふまえて語られていたところはおもしろかったのに、こういう、当時のアメリカがよくわかるネタがほかにも縦横無尽に触れられているから、ひとつひとつはわりに短くて、ゆえにストレスなく読み進められる。当時の黒人たちの置かれた情況、サンフランシスコの大学生のすがた。もう盛りだくさんのコンテンツだ。

全体に、どことなく薄暗さを感じながら読み進めた。でもそれは、ジメジメした、不健康な暗さでは、決してない。陽のあまり当たらない部屋で、晴れた日に太陽が高くあがるのを待っている時みたいな、穏やかで、あたたかい暗さだ。それが心地いい。それがヒッピー・カルチャーのリアルな温度感なのだろうか。

当時の紙面記事も多く引用されていて、見た目にも洒落ている紙面だ。巷にあふれる世俗的な論とは別のレベルで、”ほんとうの”ヒッピーワールドにどっぷり浸かりたい。

ちなみに7/18には、訳者阿部大樹×斉藤真理子の対談が、青山ブックセンターであるとのこと。アツいぜ……斉藤さん何話すんやろな……

⑥『遠い太鼓』村上春樹(講談社文庫)

ようやく読めた「遠い太鼓」。

村上春樹が、「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」執筆前後に、ヨーロッパで暮らしていた数年間のことが書かれているエッセイ集。

基本的に、ギリシャとイタリアとを行ったり来たりする感じで、島や都市ごとに大きなまとまりを作って、あとは出来事とかごとにエッセイが書かれている。

いやー、おもしろい。ええ感じにふざけている。。

このね~ムラカミクソふざけ節が、わたしはとても好きなんだな~、どこぞの馬の骨とも知らん奴に「ミーハーだね」とか何度言われても、もうこれは、好きです。

たとえば、pp.220~の「南ヨーロッパジョギング事情」とか、好きなとこが長すぎて引用しきれない(どこを切ったらいいのか謎)んだけど、最高すぎる。

ジョギングという文化を解さないミコノス島の人々に、「なんで走ってんの?」と聞かれて、「走るの好きだから」と答えても、わけがわからんとポカーン顔をされるしかない、みたいな話がかわいい。あとギリシャ人のあいさつを「こんちは」と意訳してるのがウケる。「こんにちは」を選ばない村上春樹。

ギリシャで大雨で家浸水してオワコンになる話とか、シシリーが思ったより殺伐としてていいところじゃないとか、ローマは道が空いてなくて駐車するのがえげつないほど大変だとか、3年も暮らしてるとさすがにいっぱいあるなあと思う。ページ数が多いこともあって、かなりバラエティに富んだエッセイ集だ。

おもしろいのは、村上ファンなら知りたい「ノルウェイの森」とかの執筆過程がわかることや、ふざけたエッセイだらけなのに時折シリアスな文章も入っていること。「午前三時五十分の小さな死」などは、「パン屋再襲撃」の家の中の風景を地で行ってるエモさがあって、グッと胸に迫る。とてもよい。

もはや一か所も引用しませんが、一家に一冊です。

ちなみに、きょう、ユニクロで買い物してたら「ダンス・ダンス・ダンス」とか「1973年のピンボール」とか「スプートニクの恋人」とかの表紙が使われたUTが売ってた。そんなのずるい。買うにきまっている。買わない訳がない。消費者に有無を言わせないビジネスはずるいなあ。帰ってきたらすぐ着たけど。

⑦『恐るべき子供たち』ジャン・コクトー/東郷青児訳(角川文庫)

ジャン・コクトー、存在がかっこいいなあとずっと思ってたんだけど、作品を全然知らなくて、この間本屋で角川ホラー文庫あさってたら近くの棚で偶然見つけて、薄くて手頃だったので買ってみた。

……。難儀しました……。笑

話自体は、第一次世界大戦後のフランス、退廃的なムードのなかを、4人の(脇役入れればもっと)ティーンエイジャーが、愛憎入り乱れて破滅的に暮らす様子を描いたもので、あらすじなんかを読むととっても魅力的に見える。退廃おフランスって、耽美的なことしか考えないとすれば、舞台設定として最強では?

初版は、昭和なかごろの刊行とのこと。訳者の東郷青児はそもそも画家で、まず絵がめっちゃカッケェ。バキバキに妖艶で、まったくお西洋な垢抜けたエッチなタッチ、だけどどこかジャパンの幽玄さが醸し出されてるなあと思った。ワシこれ藤田嗣治より好きかもしれんわ。そして本人は宇野千代「色ざんげ」のモデルらしい。へえ……

で、この東郷訳について、いろいろ考えた。

原文を読めるわけじゃないから、対照できるわけでもないし、岩波文庫版も光文社古典新訳も見てないから粗いことしか言えないんだけど、いかにもゴツい訳だと感じた。重厚な仏文を、そのありのままの雰囲気を尊重して訳した結果、奥まったニュアンスのなかに登場人物が隠れていってしまって、彼らと読者の距離が空いてしまった、そんな印象を受けた。

ジャン・コクトーの原文が、もともとそういう志向性のあるものなら話は別だけど……しっくり来ないままだったかな。

後半はね、どんどん激しく展開してくので「おお、おお」と思いながら、引き込まれていったけど、それでも文章が語っている出来事と、僕が読んでいるものとのあいだに、なんだか変な距離があって、「え、いま、何が起きた?」と、数行戻って確認する羽目になることが多々起きた。

この妙な感覚。

翻訳小説ではたびたび感じる、それも古い訳であればより頻繁に感じるな、と思うけど、なんとも納得がいかない。

訳が原因なのか、じぶんの読み方に問題があるのか、よくわかんないんだけど、これからもこの感覚にはたびたび出会うんだろうなあ、と思った。

聖女! ジェラールの言ったことはほんとうであった。彼にしろ、ミカエルにしろ、世の中のいかなる者も、エリザベートを所有してはならないのだ。愛は、彼女を愛から孤立させ、強いてそれを犯すものは命をも懸けなければならないというような不思議な世界を啓示した。(P.107)

こことかもね。けっこう印象的なところだけど、いかにも、な文に見えた。

「ギャレリー」の描写とかは、なんだかおフランスを感じてドキドキしたんですけどね。ううん。翻訳についてはなんだかスッキリしないことが多いのです……。

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なんだか今月は活字の量減ったな、と思ったけど、うん、「東京卍リベンジャーズ」を読み過ぎたからかもしれんです……

マンガははまると沼が深い。213話、まだですか。

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