最後の奇蹟(リモート版) セルフライナーノーツ① 「切欠」


何回かに分けてセルフライナーノーツとやらを書いてみます。

『最後の奇蹟』という作品は個人的に因縁深い作品でもある。「世界の終わりの日に女子高生とサラリーマンが冬の花火を見上げる話」を最初に思い付いたのは実に10年以上前。たしか演劇サークルの先輩と、三題噺で脚本書く遊びをやっていて、それのお題にそって考えたアイデアだったと記憶している。ところが、当時僕は全く書ききれなかった。なんか、それらしさだけが先行して血が通ってない台詞ばかり書いていて、こりゃあかんなと、結果そのまま二度と書かなかった。記憶が正しければそのときの舞台は「小学校の屋上」だったような気がする。

ありがたいことにホテル・ミラクルの脚本をもう一度書かせて貰えることになったとき、僕ははじめから「最終回を書いてやろう」と思っていた。ひとりぼっちでも生きていた方がいいのか、君と一緒にズブズブにとけてしまいたいのか。これは例えばエヴァンゲリオン最終兵器彼女ビューティフルドリーマー涼宮ハルヒ等々いくらでも擦り尽くされてきたセカイ系の系譜であり、つまりコミュニケーションというのは最終的にこうなってしまう。絶対にわかりあえない他者とかかわりつづけることは生きる希望でもあり、同時に死ぬほどの絶望でもあるわけです。エロスとタナトスの話を持ち出すまでもなく、セックス(コミュニケーション)というのはほとんど自殺であり、限りある生を享受しようという希望を与えてもくれるが同時に、どうしようもない死の臭い、腐臭を漂わせる行為でもある。
だから「ここ」は終わらなければならない。すべてのコミュニケーションは「果て」なければならない。僕はそこからはじめることにした。あなたはわたし、わたしはあなた。それがコミュニケーションの最果て。すべての終わり。金属のようにドロリとひとつに融け合う死と快楽。しかしただの終わりでは物足りない。ホテル・ミラクルは2のとき、一度怪獣の襲撃にあって大破している。この話もなんやねんって感じだけど、めちゃくちゃ面白かった。終わらせるならこれを超えなければ意味がない。大最終回。全世界を巻き込んだ大千秋楽。ジ・エンド・オブ・ミラクル。巨大な花火を打ち上げての盛大なオーガズムを。そして僕はブルーハーツを思い出した。たまを思い出した。そうだ、彼らがいた。彼らの力を借りれば、もしかしたら。
このようにして『最後の奇蹟』は、僕が学生時代に書ききれなかった因縁の作品は、姿形を大きく変えて、静かに息を吹きかえしたのだった。

長くなったから今日はこの辺で。また次回お楽しみに。

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