【南ことり生誕祭】Twilight

逢魔時。

古来より『魔物に遭遇する、或いは大きな災禍に蒙する』と信じられてきた時刻。仕事が終わり自宅の貧相なアパートへやっとの足取りで帰宅する。


 「バタン」


と、鈍い音を立て“外”を閉ざす門に目もくれずその場へ鞄を捨て置き、身に纏っていたネクタイとスーツの上着もソファへと放り投げた。ヨタヨタと疲労で重たくなった体躯を引きずり、冷蔵庫へと向かう。

 「今日の夕飯は…」などと考える間も無く己の手は無意識の内に銀色の光を返す発泡酒へと伸びていた。
「カシュッ」と小気味良い音を立てる缶の口から、今にも飛び出さんとする純白の泡を刹那のうちに身体の奥へと流し込む。黄金色の濁流が炭酸の痛覚にも似た刺激を一身に与え、干上がった喉を絞めつけながら落ちていく。ゴクゴクと低い悲鳴をあげ、1日の責務に火照った躰は芯から冷えていくのを噛み締める。その後を追うかのように口腔から鼻腔にかけて芳醇な香りが跳ね抜けていった。
一口で1/3程度をあおったところで、ベランダの物干し竿に掛けてあった風鈴の朗らかな音(ね)に我に返ると、鬱陶しい程に窓から燃ゆり射す橙色の閃光に誘われるかの如くその足はベランダへと歩んでいた。「カラカラ」と鳴きながら戸が開いた途端に我先にと隙間からぬるい風が顔をなぜ、頸筋を掠めていった。先程まで鬱陶しい筈だったそれも、前髪をそっと揺らした風も、体に纏わり憑いていた労も──、その日は不可思議なことに心地が良いものだった。

 掴んでいた体積の軽くなった銀色の缶を置くと、着ていたYシャツの胸ポケットに窮屈そうに押し込められた白く柔らかな箱を引きずり出し、ズボンの右ポケットからは真鍮の小さい塊を取り出した。もう馴れた手つきで白い箱の左上面を扣(たた)くと、爪弾かれたように数本の煙草が飛び出る。その内の一本を口に挾むと真鍮の塊は首の皮が一枚繋がられたまま断頭され、夕景に敗けぬ程の焔を灯し始める。

煙草を吸う時にはいつも決まってこの場所だ。

うちっぱなしのコンクリート造り、狭い無機質な灰色の世界。忙しなく過ぎる日々の濁流に力無く押し流されるだけの自分は、ここが自身にとっての“繋留点”なのだと思わされる。

今年は異常気象だなんだとテレビのワイドショーが騒ぎ立て、ついそこまでジメジメとした嫌悪感に苛まれる夏の面影など無かったかのように冬の寒さが顔を覗かせる。

不意に扉の閉まる音に意識を引き戻された。

「ただいま〜…あ、帰ってきてたんだ!おかえり」

そう言ってどこか草臥(くたび)れた笑顔を見せた俺の彼女、「南ことり」がそこに居た。

ことりは高校で「スクールアイドル」という学生アイドルのグループで「μ' s」の"元"メンバーだ。服飾の大学に通う今は俺と同居しながらファッションデザイナーの道を目指している。

「あ〜またタバコ吸ってるー!もう!あれほどやめてって言ってるのにぃ…程々にしないとダメですよ?」

彼女には食事面から健康面にかけて何かと面倒を見てもらっている。全く面目ない話だ。「分かってるよ」と口に出す前に彼女が続けた。

「…でも今日はことりも悪い子になっちゃおうかな」

普段滅多に煙草を吸わない彼女がこういう事を言うのは珍しい。
きっとさっきの振り絞った笑顔と何か関係あるに違いないと勘ぐったが、俺のポリシーとして「積もる話はたわい無い時間にする」と決めている。
俺は「…そっか」と零し、またいつもと同じように白い箱の左上面を扣くとこんがりと香ばしく焼きあがったスポンジケーキの色をした煙草を1本差し出した。

「ん、ありがとう」

と彼女はそれを受け取ると、どこか安堵した様だった。

火を、と思ったがライターがうまく点かない。

掌の届かないほど煌々と眩し過ぎる陽はいつしか陰り、日の終わりを告げる暗闇が自分達を呑み込み始めていた。

「大丈夫、火ならそこにあるよ」と彼女が言った。一瞬なんのことか分からなかったが、遅れて理解すると諦めと匂いの混じった白い溜息をひとつ付き自分が吸っているそれをことりへと寄せた。

世界からそれ以外がなくなったかと錯覚するほどに、布の擦れる音だけが脳裡に住み着いた。

 「ねぇ、吸って。」

深く深く陥ちるようにゆっくりと息を吸うと口に咬(くわえ)た煙草の先に赫い螢火が仄かに燈る。彼女も煙草を咬て蛍火の先に当てやると、同じ体温を共有するかの様に「ジジジ…」と音を立て、焔は乗り移りじわり、じわりと伝播していった。そしてゆるやかに立ち昇る煙を躰の中へと吸い入れると、彼女のさらりとした髪を耳の後ろへと搔き上げる。

「…ごめんね、ありがとう」

そう彼女が呟いた。この方法は時間がかかるし疲れるからあまり好きではないのだが、その言葉は煙とともに吐き出されることは終ぞなかった。

 ──煙草に紛れ微かに漂う彼女の匂い。それらを感じた自分は視線を交える事ができずにただ目の前にあるその赫い螢火を茫然と見つめるしか出来なかった。

じじじ、と焔が煙草の葉を燃やす音だけが総てを隠そうとする暗がりで雄弁さを物語ろうとしていた。

やがて昇った二つの煙は宙で絡まり合い、そのまま遥か彼方 鈍色の空へと流れて、消えた。

 それから俺たちは示し合わせるでもなくベランダの欄干にもたれかかり、空を仰いだ。夏風は行き交い、風鈴のたなびく音がちりんちりんと密かに語りかけてくる。彼女は少し疲れてしまったのか綺麗な琥珀色の瞳を閉じ、それに耳を傾けているようだった。どちらかが喋りだすわけでもなければ、静寂とも違うその不思議な空間がなぜだか俺には酷く愛しく思えた。

それは例えるなら夕陽の灯りような淡く、温もりのあるもので
そして一たび夜の帳が蓋をすればあっけなく消える、そんなものだった。

また俺はゆっくりとそれを吸い、宙へ吐き放つと短くなった線香花火ようなそれの火球を「グシャリ」と摘み消した。

 ふと視線を向けると、吸い終えどこか慰められたかのような顔持ちの彼女と目が合った。数秒もしないうちにことりが温かい笑みを射しながら話した。

「…よーしっ、今日はご馳走にしましょう!あったか~いポトフと、それからぁ…あなたの大好物!ことり、頑張っちゃうぞ~!」

そう言って我先にと室内へ戻っていったことりの背中を追い、
気付かずいつの間にか燈っていた包み込むような室内灯と、総てを呑み込む“外”を隔てる戸を潜り抜け俺は室内に戻った。

時刻は…18時過ぎを指していた。昔の人はこれくらいの時間を「逢魔時」と言ったらしいが、他にも別の言い方もあったような気がする。
確か…



    『黄昏時』。          


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