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善人が不幸になり、悪人が幸福になる、天道、是か非か(天の道は正しいのか、間違っているのか)

史記・伯夷列伝はこの問いを記しています。

さて、性善説を唱える孟子と反論する告子の論争は、「善・悪」と言う事柄について、興味深い視点を提供しています。

性は生、つまり、生きている事自体が人間の本性だと言う告子に対して、孟子はだったら犬だってウシだって生きている、
犬やウシの本性と人間の本性は変わらないと言うのかと質問します。

すると、告子は「仁は内なり、義は外なり(仁義と言う道徳について考えてみると、仁は人の内面から出てくるものだが、義は外部からくるものだ)」と答えます。

孟子が何をもってか仁は内、義は外なりと言うか?と根拠を尋ねると、

告子はこう答えます。
「彼長じて我之を長とす。我に長あるに非ざるなり。」
(ある人が支配者となったら、自分はその人を支配者だと思うだろう。別に元々、自分に支配者がいたわけではない)

吾弟は則之を愛し、秦人の弟は則ち愛せざるなり。是れ我を以て悅ぶことを爲す者なり。故に之を內と謂ふ。
(自分の兄弟については、自分はそれを愛するが、異国である秦の国の人に兄弟がいても別に愛したりしない。自分の肉親を愛するのは自分が嬉しいからだ。だから「仁」と言うのは内側の問題なのだ)

楚人の長を長とし、亦吾の長を長とす。是長を以て悅ぶことを爲す者なり。故に之を外と謂なり。
(楚の国の人は楚の国の支配者を支配者だと思って服従するだろう。自分は自分の国の支配者に服従する。そうすれば、支配する側は喜ぶだろう。これは自分の外部にある問題なのだ)

サッカーの日本代表がW杯で勝った時、喜ぶのは「内」なのか、「外」なのかと言う問題を考えてみると、
告子の喩えが正しいのかどうかかなりツッコミどころ満載だと思います。

ただ、自分が良いと思う事柄の中に、内側から出てくる感情の部分と外部から与えられた規範の部分があり、善・悪の判断には、この両面があると言う指摘は重要です。

アショーカ王はインドを統一した後、全国に宝塔を建てたそうです。
源頼朝は、その故事に習い、「死せる平氏の黄泉路を照らさん」と平家の人達のために宝塔を建てたそうです。
北条時宗は、元軍の死者も弔うと言って、建長寺を建てたと伝えられています。

怨親平等(敵も味方も平等に扱う)と言う伝統が、鎌倉幕府にはあったのかもしれません。

旧約聖書には敵のロバ、またはウシが迷っていたら、送り届けなさいと言う律法が書かれています。

やったぁ、ラッキー、これ、敵のロバじゃん。自分のものにしちゃおうと言うのはNGなわけです。

告子の内・外論で考えた場合、平氏なり、源氏なりに生まれついたのは偶然の事で、たまたま自分は平氏の側になったからそちらで戦わざる得なかったと言う事もあると思います。

ですから、そもそも、平氏が敵で源氏が味方と言う発想が、自分の内面から出てくるものなのか、外部から来ているものなのかは、かなり微妙な問題です。

ただ、とにかく、平氏であっても元軍であっても、敵も味方と同じように扱うと言うのは、自分の内面から出てくるものではないと思います。

敵も味方も平等に扱えと仏様が教えているから敵の死者も弔う、
敵のロバも送り届けろと聖書に書いてあるからそうする…

つまり、「仏様の教え」なり「聖書」なり、自分の外にある規範によって善悪を判断していると言うのは多分にあることだと思います。

アメリカの独立宣言は「全ての人民は幸福になる権利を造物主から与えられている」と述べています。
造物主と言うのは、天地の造り主であるキリスト教の神様の事です。

日本の神皇正統記は、「天下の万民は神物」、つまり、世の中の人はみな神様のものだと述べています。

バルキッドゥ・サドルは、イスラム経済論の中で、「外部的規範があるから社会の仕組みは成り立つ」のだと述べ、中東の場合、その外部的規範としてイスラムがあるとしています。

そして、世の中には自分の才覚だけで生きていける人、労働力を売るしか生きるすべがない人、労働力を売る事もできない人がいる、最初のグループの人は後2者、第2グループの人は最後のグループの人の事を考えなければならないとしています。
第一グループが有名人や起業家、第二グループが通常の労働者、第三グループが通常の雇用ベースには乗らない人達の事だと考えると、サドルの主張は社会の構成員の生存を100%自己責任でやれと言うのではなく、ある種の社会福祉・社会保障の必要性を論じていると考えられます。

ところでクルアーンには、貧しい人々に施しをすればアッラーが利子を付けて返してくれると言う意味の記載があります。

こうやって見てくると、
仏様の教えだから敵も味方と同様に扱いなさい、
聖書に書いてあるから敵のロバも送り届けなさい
造物主がそう作ったのだから、人民には幸福になる権利がある
世の中の人は本来神様のものなのだから、支配者は人民を大切にすべきである
アッラーが貧しい人に施せば報いてくださると言っているのだから、社会保障を充実させるべきだ

・・・これらの論理は、いずれも、神とか仏とかと言う「外部」を持ってきて、規範の根拠にしている事が分かります。

告子もサドルも善・悪と言う価値判断の基準には、「外部規範」があるのではないかと言う点が共通しているのです。


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