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「天道、是か非か」(善人が不幸になり悪人が幸福になるとは天の道は正しいのか、間違っているのか)と言う史記・伯夷列伝の問いに端を発して、
人間は「善・悪」と言う判断をなぜしているのか?について述べる事を続けています。

性善説を唱える孟子と「性は生である」(生きている事が本性である)と言う告子の論争は、噛み合っているようで噛み合っておらず、噛み合っていないようで噛み合っているように読めます。

生は性だ、食色だ(人の本性は善でも悪でもない、生きていると言う事が本性だ。食欲とか性欲とかが本性なのだ)

そんな事を言うなら、犬やウシだって生きている。ウシの本性と人間の本性は同じなのか

自分の肉親を愛するのは自分の心から出てくる事だ、しかし、秦は異国だから秦の人の肉親を愛すると言う事は自分の内側からは出て来ない。
楚の国の人は楚の国で目上の人を敬うだろう。自分は自分の目上なら敬う。これは目上の側には都合がいい。自分の内面から出てくる事ではない

しかし、秦の国の人も「ワタシ」も炙りものは好きだと言う点は変わらないのではないか

秦や楚と言う異国の人の事を並べて、善悪の判断根拠になっている「道徳」は、自己の外部に存在する規範だとする告子。
この言い方は、ウシと人間の本性は同じなのか?と言う質問に答えているのでしょうか?答えていないのでしょうか?

直接は答えていないと言う点では、噛み合っているとはいえないのですが、人が善悪を判断する根拠は、外部にある、
つまり、ウシも人も「生きている」と言う本性には変わりはない、人が善悪と言う価値判断を下すのは、自己の外部にある「道徳」によっていると答えているとすれば、噛み合っている議論だとも言えます。

とにかく、秦や楚と言う異国を持ち出す「キングダム」論法を展開する告子に対し、

孟子は「ワタシ」が炙りものを好きだと言うのと秦の国の人が炙りものを好きだと言うのは変わらないではないかと「八代亜紀」論法で迫ります。

その「炙りものが好きだ」と言うのも、人間の外側にある規範なのか?

告子「キングダム」論法と孟子「八代亜紀」論法は噛み合っているのでしょうか、噛み合っていないのでしょうか?

自分の肉親は愛するが、秦の人の肉親は愛さない。
自分の肉親を愛すると言うのは、自分の内面から出てくる感情だ。
自分は自分の国の目上を敬えと言われて敬うが、楚の国の目上の事は敬わない。
これは国の中で目上を敬うと言う、自己の外部にある道徳に従っていると言う事だ。

告子は、こうして、人の内部から出てくる動機と外部にある道徳や宗教のような規範によって規定されるものを区別します。

孟子はこの告子の言い分を直接には否定も肯定もしていません。しかし、「自分は炙りものが好きだ」、「秦の国の人も炙りものが好きだ」、この2つは同じではないか?

と言う論理は、善悪の判断は人の「外部」にあるものだと言うのは少し違うのではないかと言う問題提起になっていると思われます。

秦人の炙を嗜むは以て吾わが炙を嗜むに異ことなることなし。夫れ物も則亦然しかることあり。然らば則ち炙を嗜むも亦外に有るか。
(秦国の人が炙りものが好きだと言うのと「ワタシ」が炙りものを好きだと言うのは同じだと思う。そういう事は他の事でもある。炙りものが好きだと言うのも人間の外にある道徳や宗教のような規範なのか?)

孟子は「ワタシ」も「異国人」も「炙りものが好きだ」と言うのは、内側から発する志向であって、「性善」が成り立つ根拠をそこに見ようとしているのでしょうか?


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