「医療は健康、統帥は勝利、家計は富」が善なのか?

いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択もことごとく何らかの善を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だと言える所以である。

アリストテレスの「ニコマコス倫理学」はこのように始まっています。

いくつか疑問を持ちながら、この本を読んでいきたいのですが、例えば、悪の組織「ショッカー」は「善」を希求しているのでしょうか。

また、

活動それ自体が目的である場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。目的が何らかの働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、活動それ自身より成果の方がより善きものであるのが自然であろう。

と言う部分について、活動自体が自己目的化してしまっている例として「お役所仕事」みたいな事とかを想像してみた場合、それはどのように評価されるのでしょうかと考え込んでしまいます。

そのそれぞれの目的とするところもまた、医療は健康を、造船は船を、統帥は勝利を、家計は富を、と言う風にいろいろなものとなってくる。

アリストテレスは、様々な活動について、それらの目的をこのように述べています。

しかし、医療機関なり軍隊の統帥部なりにおいて、幹部の出世欲や権勢欲の為になされる行動はどうなのでしょうか。

いや、アリストテレスが書いているのは「ニコマコス倫理学」、つまり、「倫理学」なんだから、行動の基準を述べているんだ、医療は健康、統帥は勝利を求めるのが、本来の目的にかなった「善い行動」で、幹部の権勢欲の為に行われる行動は「間違った行動」なんだ

そういう風に疑問を打ち消して読むべきだと言う考えもあるかもしれません。

しかし、物事はそう単純ではないと思います。

ある金持ちに一人の管理人がいた。
この男が主人の財産を無駄遣いしていると告げ口をする者があった。

そこで主人は彼を呼びつけて言った。
「お前について聞いている事があるが、どうなのか。
会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」
管理人は考えた。
「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
そうだ。こうしよう。管理の仕事を辞めさせられても、自分を家に迎えてくれるような者達を作ればいいのだ」
そこで管理人は主人に借りのある者を一人ひとり呼んで、まず最初の人に
「私の主人にいくら借りがあるのか」と言った。
「油百バトス」と言うと、管理人は言った。
「これがあなたの証文だ。急いで、腰をかけて五十バトスと書き直しなさい」
また別の人には、「あなたは、いくら借りがあるのか」と言った。
「小麦百コロス」と言うと、管理人は「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい」
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方を賞めた。

新約聖書の「ルカによる福音書」に出てくるイエス・キリストがなされたお話で、「不正な管理人のたとえ話」と呼ばれています。

この管理人は、主人の財産を無駄遣いしていたのですから、「家計は富」と言う「善なる目的」を逸脱した行動を取っていた事は明らかです。

しかし、次々と債務者を呼び出しては、油百バトスを五十バトス、小麦百コロスを八十コロスと言う具合に、「借り」を軽減する管理人の行動を、主人は賞めたとあります。

管理人の行動は、「仕事を辞めさせられても、自分を家に迎えてくれるような者達を作ればよい」、

つまり、借財のある人に「恩」を売っておいて、恩返しをさせれば、職を失っても自分は生きていけると言う発想に基づくものです。

その発想は「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」、すなわち、他の方法で仕事をするのは出来ない、またはしたくないと言う極めて利己的な動機に基づいています。

おそらく、このたとえ話に登場する「主人」は「神様」の事なのでしょう。イエス・キリストは神様から頂いた「財産」を無駄遣いしたり、神様に「借り」があったりする罪深い人間たちが、利己的な動機に基づくにせよ、お互いに「恩」を売り合い、返し合うことを通じて生き延びていく可能性について仰られているのかもしれません。

しかし、そのように考えた場合、権勢欲に基づいて組織を動かす場合にも、組織に属する人達に「恩」を売っているのだから、それも一種の善だと言えるのかと言う別な問題が出てくるように思います。

果たして、「医療は健康、統帥は勝利、家計は富」を追い求める事が善なのでしょうか?それとも違うのでしょうか?


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