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「なぜ勉強をしなければならないか」への答えは「人間らしく生きるため」他

子どもの頃、よく、「ひょっこりひょうたん島」を見ていました。

あの中に「勉強なさい」と言う歌が出てきました。

子どもたちが勉強なんかしなくたっていいじゃないかと言うと、お返事が人間らしくなるためだと言うやり取りが、子ども心に印象に残った記憶があります。

今聞いてみると、ちょっとズレてるかなぁと感じる点はあるのですが、ただ、勉強する根拠=人間らしくなると言うのは、この歌の論旨とは別に「あっている」ような気がします。

「稲を伝えた民族―苗族と江南の民族文化 (萩原 秀三郎)」の中に九州や沖縄の「タマシ」と言う語が、獲物について一人分の分け前を意味していたと言う話が出てきます。

はるかな昔から人々は協同作業というものをしていたようですが、その際、全員に「分け前」が与えられる、その分け前=タマシ(魂)と考えられていたと言うことです。

旧約聖書には「主は泥をこねて人の形を形作り、鼻から息を吹き込まれた。こうして人は生きる者となった」と書かれています。

また、萬葉集には「魂よばい」、つまり、人間が生きているのは身体に魂が宿っているためで、死んだ人の魂はもしかするとその辺にいるはずだから呼び戻せば生き返るかもしれないと考えて、呼び戻しの儀式が行われている様を歌った歌が出てきます。

また、ギリシャ人とインドの仏教者の対話である「ミリンダ王の問い」には、「自分」なるものが目とか口とか骨とか内臓とか、そうした身体のパーツの寄せ集めではないと言う問答が書かれています。

人を人たらしめるもの、自己と自己たらしめるもの、そう言うものを「魂」と呼ぶとして、その魂があるから人は生きている、その魂を持った者は分け前を貰う権利がある、

そう言う事が、太古の昔から考えられてきたわけです。

ただ、何らかの分け前が貰えるとして、それは「どの程度」の量なのか?全員に「平等」に分配するとはどういうやり方か?

この点について、アリストテレスは、調整的正義と配分的正義と言う概念を述べています。

分かりやすく言うと、頑張った人とかよく出来た人には沢山与えるというのが調整的正義、みんなに一律平等と言うのが配分的正義と言うことです。

この「出来た人にご褒美」と、「みんながもらえる」と言う二つの理屈は、例えば賞与と基本給のように、現代社会でも併存しています。

資本主義はどちらかと言うと「出来た人にご褒美」的競争原理、社会主義は「みんながもらえる」平等原理を追求しているとして、

アメリカ的資本主義もソ連的社会主義も中東の国づくりでうまくいかなかったとして、「イスラム経済論」を唱えたのが、バルキッドゥ・サダムです。

サダムは、古典派経済学からマルクスに受け継がれた「労働価値説」を批判して、真珠の価値は漁師の労働によるのではなく、神が与えたものである、ただ、真珠を取ってきた者には、その真珠の保有権が与えられると述べています。

アダム・スミスが言ったような「労働価値説」だと、真珠自体に価値があるのではなく、真珠を取ってきて市場にもたらした「労働」によって価値が生まれる(だから、頑張って沢山、真珠を持ってきた人が儲けてよい)になります。

マルクスは、真珠を取ってきた労働者に正当な報酬を払わないで資本家が儲けている的な理屈を言っているわけです。

サダムの観点では、「人」にしても「真珠」にしても、存在しているのは「神様」のおかげであって、「人」は「真珠」を取ってくる「労働」によって報酬が与えられるが「労働」が出来ない人にも何らかの手当はなされるべきだと言うことになります。

北畠親房の「神皇正統記」には「天下の萬民は神物也。君は尊くましませど君ひとりを楽しませ、萬民を苦しめるは天も許さず神も幸いせず」と書かれています。

「天下(=世の中)のすべての人は、神様の物なのだから、君主だけが栄えて人々が苦しむのは、天も許さないし、神も味方しない」と言う意味です。

このように、「人」を「神」や「天」のものだと考える見方は、世界の様々な地域に存在します。

「神」や「天」から授かった「魂」を持っているから、その「魂」の持ち主たる「人」はすべて何らかの分け前が貰える、ただ、一生懸命頑張った人、成果を上げた人は、その努力、成果に対する評価としての分け前もある・・・

結局は月並みな言い方に落ち着きますが、要するに調整的正義と配分的正義、「出来た人にご褒美」論と「みんなが分け前をもらえる」論のバランスが必要だと言うことになるのだと思います。

では、どういう風にみんなに分け前を分配するか?、このためには「読み書きソロバン」、お互いにコミュニケーションを取り、「分け前」、「分配」に関する計算をする事が必要になってきます。

古今東西の古典・原典について並べ立てた挙げ句、ようやく、「オチ」に近づいてきましたが、この分け前の分配をきちんとするためには、「読み書きソロバン」の能力が必要であるわけです。

「人」それぞれ「魂」を持って生きているとして、その「魂」を持ったひとりひとりが幸せになっていけること、同時にそれぞれが努力や成果に応じて評価してもらえること、そう言う状態を実現していくためには「読み書きソロバン」能力が求められると言うことです。

かくして、「なぜ勉強しなければならないか」への答えが「人間らしくあるためだ」になるわけです。

延々述べてきましたが、この間、ポーカーチップ算数の体験会をやってみて、保護者と子どもの間にある感覚の開きを感じました。

実際に手を動かして、ポーカーチップを操作することで、例えば「割り算」のような計算は何をしているのかを子どもは「体験」することが出来ます。

算数につまづいている子どもが「分かる」ようになるために、ポーカーチップ算数の手法は有効であることは分かりました。

ただ、そもそも「算数につまづいている子ども」は、ポーカーチップ算数だろうとなんだろうと「算数の勉強」をする場所に来る事自体がイヤなのです。

保護者は心配して連れてきたがりますが・・・

ポーカーチップ算数の企画をこれからどういう風に進めていったらよいだろうか?、ひょっこりひょうたん島の歌を聞きながら、考えています。

ほぼ連日のように最高気温の観測値は平年値(1980-2022平均値)を上回り、時には4-5℃から8℃以上も高い状態が見られました。

2週間予報によれば、4/19は観測値が平年値以下になりそうです。この先、3月に比べると、観測値と平年値の差は縮小すると思われます。ただ、最高気温の平年値が20℃を超える4月下旬以降、観測値は25℃以上の日が頻発し、「暑いゴールデンウィーク」になりそうな気がします。

さいたま市だけが暑いわけではなく、日本近海の海水温も例年より高くなることでしょう。海水温が高くなれば、水分の蒸散も活発になり、雲ができやすくなります。

4/7以降、雨が降る日が多いようですが、これはそうしたことと結びついているように思います。

気温も海水温も高めの状態で迎える「梅雨」はどのようになるでしょうか

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