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ポーカーチップ算数の企画を進めているうち、数学の専門家で「数学は問題を解く事ではない」と言っている人に出会い、お話ししてみることにしました。

僕は、そもそも数学とはなにか?とか、なぜ、ご自身の活動をしていらっしゃるのか?とか、数学を学ぶ意味はあるのか?とかと聞いてみました。

明確な「こうだ」と言うお返事はなかったですし、数学を学ぶ意味に至っては「分からない」とか「数学を面白いと思っているわけではない」的な答えが返ってきて、こちらもどう言っていいかと言う感じになりました。

それでも、いろいろ会話を続けました。環境教育では「知る事は感じることの半分も重要ではない」と言う言葉があります。

必ずしも、僕は賛成ではないと言うか、賛成と言えば賛成だけど的に奥歯に物が挟まったような言い方しかできないのですが、

経験的に、人と人が会話する場合、「論理的」に相手の言っている事が理解できなくても、時間が経つうちに、相手が話していたことが自分の内面で噛み砕かれて、なんとなく、自分の中に新しい概念が生まれてくる・・・そう言うのを「化学変化」と称する向きもあるようですが、化学科出身者としては、あんまり、そう言う言葉遣いは好きではなく・・・

まぁ、とにかく、いろいろお話を続けたわけです。

この方がおっしゃるには、例えば、「長さ」、5cmとか10cmとか、そう言うものは、「数字」として言える、10cmの方が5cmより長いと「比較」も出来る、

しかし、そう言う風に言えないものもあると言う事でした。

僕は、そのへんから食い下がり始めました。

例えば、原始時代に二人で協力して、鹿を狩ることになったとする、Aさんは鹿の毛皮を取る、Bさんは鹿の肉を取ると言うようにお互いに分け前を得るとする

これは必ずしも、例えば、鹿の肉が全部で60キログラムあったとして、鹿肉60kgが毛皮1枚と言うような「交換レート」がある=数量化されて捉えられているわけではない、

単に、Aさんは毛皮、Bさんは肉と言う形で分け前をもらうと言う取り決めがあると言うに過ぎない、そうだとして、これはこれで「数量化」とは別の「数学」的な取り扱いが可能なのではないか?

と聞きました。

どうやら、この専門家の方によると、それはそれで数学的に取り扱う方法はやっぱりあるらしい、

そもそも、例えば、「図形」と言うのは「数量化」とは別な発想に立っている部分があるらしい(とは言っていなかったかもしれませんが、まぁ、僕はそのように理解しました。)

考えてみると、三角形と四角形、どっちが大きいかと言うのは一概には言えない、面積がどっちが大きいかなら、具体的な三角形なり四角形なりを示して、例えば、底辺ABが20cmで角Aが20度で角Bが70度の三角形と、4辺が15cmと30cmと18cmと26cmの四角形の面積、どちらが大きいかと言えば、それは計算して比較できるかもしれませんが、

そもそもが三角形と四角形の「性質」みたいなことを考えている部分がアレコレあって、まぁ、その時に、そもそも、三角形と言うのは頂点が3つ、辺も3つある図形の事だ的に

「数」ってものを使って、物事を取り扱っているわけですが、

図形の取り扱いが全部が全部、「数量化」って事ではないわけです。

でまぁ、僕がなぜ、この鹿の毛皮と肉の話を持ち出したかというと、「稲を伝えた民族―苗族と江南の民族文化 (萩原 秀三郎)」と言う本に沖縄や九州の古い言葉に「タマシ」と言うのがあって、これは一人前の分け前を指す言葉なんだそうです。

この「タマシ」は「魂」の語源になったと思うのですが、「人が『魂』を持っている」=「一人前として扱われるべき存在」と言う事と獲物の分前が結びついていると言うのは面白いと思ったわけです。

ただ、その一人前の分け前と言うのは必ずしも「数量化」を意味しない、マルクスが言ってるみたいに、例えば、小麦粉1キログラムは600円だ、木綿の布地1メートル100円だ、小麦粉1キログラム=木綿の布地6メートルだってのは、「貨幣」を媒介にして出てきた「交換価値」であって、

当初、AさんとBさんが一緒に狩りをする、でAさんは毛皮、Bさんは肉と言う取り決めは、先に述べた通り、肉60キロ=毛皮1枚と言うような「交換価値(数量化)」を意味していないんじゃないか、

ただ、それはそれで数学的な取り扱いが出来るとすると、数学と言うのは、人と人が関わっていく場合の根底にあるんじゃないかと言ったわけです。

そうしたら、「あらゆるものの根底に数学があると言う発想に立っているんじゃないか」と言われました。

つまり、なんでもかんでも数量化できるわけではない、数量化できないものもある、そして、数学的に扱えるものもあればないものもある、数量化の限界、数学の限界がある

どうやら、そう言うことをおっしゃりたかったようです。

でまぁ、とにかく、このへんで「時間切れ」になって終わったのですが、

後から考えてみて、僕なりに思うことは、「ゴッドは神か上帝か」って聖書翻訳の歴史についての本の最後の方に出てくる議論です。

この本は、西洋語の「ゴッド(デウス)」を東洋語に翻訳する歴史についての解説をしています。

どうやら、当初、「天」と訳す方が多かったのが、ある時点から「神」と訳すようになったと言うことです。

この本の指摘を読んでから、僕はあんまり「多神教」とか「一神教」とかと言わなくなりました。

「天」と言うものはやっぱりひとつしかないもので、「多天教」ってのは考えにくい、私達が普段考えている「多神教」と「一神教」の区別と言うのは、ゴッド(デウス)を「神」と訳したことから始まっている部分があるとすると、違うかもしれないと思い出したからです。

話をこの本の事に戻すと、最後の方で、翻訳の問題、つまり、ゴッド(デウス)ってのが、「神」でも「天」でもいいですが、そう言う風に「翻訳できる」と言う発想は正しいのかみたいな論だったと思います。

でまぁ、この本の言い分と言うのは、先に出したマルクスの話、小麦粉1キログラム=600円、布地1メートル100円だとして、小麦粉1キログラム=布地6メートルみたいに「交換可能なもの」として、いろんなものを扱っている、だけど、実際は小麦粉は食うもので、布地は服として着るもので「違うもの」だ(こういうのをマルクスは「使用価値」と呼んでいます。)

小麦粉と布地と言う本来、別なものを「貨幣」と言う尺度で測って、交換可能だと言う資本主義の発想と、ゴッドを「神」なり「天」なりと言う言葉で置き換えうると言う発想は同じものだ、

と言う批判を書いていると僕は読みました。

でまぁ、この本ではチョムスキーの変形文法を取り上げています。

変形文法の説明までしていると長くなるので、大幅に端折りますが、

例えば、翻訳と言うのは、ドッグは犬だ、キャットは猫だ的な単純な単語の置き換えだけですまないことがあるわけです。

飲食店で「私はラーメンだ」と言っているのを「アイ アム ラーメン(ことによると、アかザか、もしくはア ボオル オブ ラーメンかもしれませんが)」

とにかく、「私」は「ラーメン」であると言う風に取るのは間違いなわけです。

じゃあ、「私が食べたいのはラーメンである」って言うような訳を持ってくればいいかと言うとそうとも言えない、

例えば、性的分業ってのを否定しても、「きのう何食べた」のシロさんみたいに、家庭の中で、「いつもお料理作る係」がいる場合は考えられるかもしれないし、みんなで交代って当番制にしても、少なくとも「今日の夕御飯係」がいるかもしれない、

その「お料理係」が、今日、何食べたいって他の家族の人に聞いた時、「僕はラーメン」って答えるか?と言うと、ただ「ラーメン」って答えるかもしれない、

この場合、そもそも、質問自体が「今日、何食べたい」と聞いているけれども「私は夕飯をこれから作ろうとしているけれども、あなたは私に何を作って欲しいですか」と言うような意味で聞いていて、それに対して「ラーメン」と言う返事は、「私があなたに作ってほしいところの料理はラーメンです」みたいな意味だと言うことになるかもしれないわけです。

だから、「僕はラーメンだ」と言うのが、飲食店で注文を聞かれている時に成り立つ言い方であって、家庭では普通成り立たないんだとしたら、「僕はラーメンだ」は「私が注文したいところの料理はラーメンである」的な意味になるのかもしれません。

でまぁ、「自動翻訳機」なるもの、あれは、今は、ここに書いたような「意味の分析」をしているわけではなくて、世間でいっぱい使われている「僕はラーメンだ」的発言を集めてきて、飲食店で「僕(または私はなど)は、〇〇だ」、つまり、「一人称代名詞+料理名」と言う発言があったら、注文したい料理を表現していると考えるとしているだけかもしれませんが、

現在か、将来、とにかく、「意味の分析」が出来る翻訳機が存在するとして、そういう風に、日本語と英語でも中国語でもいいですが、そう言う風に2つの異なった言語を「イコール」で結んでしまえるものなのか?、

「聖書」を翻訳しようと言う発想自体が、「小麦粉」と「布」が交換できると言う発想と同じで「本来、違うもの」を「交換しうる」と考える点で間違いなんじゃないかというのが、件の本に出てくる論点だと思うわけです。

でまぁ、僕は、この点についていろいろ考えたのですが、ある意味、正しい指摘なんですが、「ソイツを言っちゃあオシメイヨ」なんじゃないかと思ったわけです。

チョムスキーは、日本語とか英語とか中国語とか、そう言う具体的な言語ではない「抽象的な辞書」・・・先の例で言うと「僕が注文したいと思っているところの料理はラーメンです」的な「本当の意味」的な事が書かれている辞書があって、その「本当の意味」を日本語なら日本語、英語なら英語の環境の中で育つと、日本語なり英語なりで表現するようになると言うようなことを言っているわけです。

しかし、出典がちょっと思い出せないんですが、どうやら、人間の脳内にはチョムスキーが言うような抽象的な辞書機能があるわけでなく、人と分かり合おうとする志向があるみたいな話を読んだ事があります。

全然、違う言葉喋っている人間どうしが出会った時に、お互い、「コイツ、何言ってんだ」と相手が言っている意味を理解しようとする、そういう志向を人は持っていると言うことらしいのです。

で、先の自動翻訳機の例に戻ると、膨大なデータから「飲食店の客が、『一人称+料理名』で『私はラーメンだ』的に言う時は、注文の事を言っている」的に処理するのか、意味の分析をするのかは別にして、コンピュータで処理できると言うことは、なんらかの「数学的取り扱い」をしていると思うわけです。

で、その「数学的取り扱い」をした結果が役立たないかと言うと、まぁ、海外旅行に行って「自動翻訳機」使って、お店で買い物したり、自分が行きたい観光名所への道聞いたりするのは出来るかもしれない、

けっこう役立つわけです。

ただ、では、「自動翻訳」にはやっぱり限界があるんじゃないか?例の「アラサーちゃん」のドラマの最後は、夏目漱石が「日本人はアイラブユーって言わない、月がキレイですねって言う」、まぁ、これ自体、俗説で本当の話じゃないって意見もありますが、

とにかく、「文系くん」が「アラサーちゃん」が「月がキレイ」って言うのを聞いて動揺する、二人の恋の行方はいかに?、そう言うシーンで終わるわけです。

でまぁ、「恋の行方」も含めて、アイラブユーでも月がキレイでもいいんですが、相手が本当に思っていることはなにか?って永遠に謎みたいなとところがありますが、なんとか理解しようとする、そこに人と人の「コミュニケーション」ってものがあるんだと思います。

だから、翻訳万能論=これは数学万能論にも通じると思いますが、それは間違いかもしれないけれども「翻訳」と言うこと、その「翻訳」を行うための処理として「数学」と言うこと、これは、やっぱり、学ぶ価値と言うか意味があるんじゃないかと思うわけです。

(さっき、「ソイツを言っちゃあオシメエヨ」って言ったのは、翻訳万能論、数学万能論は間違いかもしれないけれども、じゃあ、翻訳だの数学だのが要らないって言ってしまったら、人と人がコミュニケーションしあおうとする努力と言う事自体の否定になるんじゃないかということです。)

でまぁ、先の「鹿の毛皮と肉」の話に戻ると、例えば、狩りの前にAさんは毛皮、Bさんは肉と分け前を決めていたとして、実際に鹿を捕まえた後、Aさんは、なんか毛皮と肉だと自分の方が少ないような気がして、「俺にも肉をちょっとくれ」と言い出すかもしれません。

で、ここでAさんの要求を「毛皮+肉少し」と捉えるのか、毛皮と肉と言う分け前の取り方だと、なにか自分の方が損してるように思っていると言う「気持ち」の問題として捉えるのか?と言うことがあると思います。

後者の方だとして、Bさんは肉は全部自分がほしいと思っている場合、解決策としては「じゃあ、Aさん、鹿の脳はどうだ?、脳みそは旨いぞ」って言う方法があるわけです。

ここで「脳」は当初の分け前の取り決め、毛皮にも肉にも含まれていません。含まれていないものが、よくよく「鹿」と言う現象を観察したら、これでイケるんじゃないかになった、

すると、Aさんは「いや、俺は鹿の脳みそってのは欲しいと思わない」になるかもしれない、その時、「うーん、じゃあ、角はどうだ?、なんなら、骨全部あげてもいいぞ」と言ったら、Aさんは、毛皮の他に、角と骨全部もらえるんなら、自分の方が損したにはならないかもしれないと思って納得する可能性があります。

その次に、今度はBさんはCさんと一緒に狩りをするのだとして、Bさんはやっぱり鹿の肉は全部ほしい、まぁ、この間、Aさんは毛皮と角と骨で納得したから、今回もそれでいこうと思っていたら、Cさんは、「いや、自分は角とか骨とかは要らない、毛皮の他に肉を少しほしいんだ」と、けっこう強く「肉」にこだわるかもしれません。

すると、Bさんは、多少なりとも肉をあげないとCさんは引き下がりそうもないと考えた上で、まぁ、骨があれば、肉を煮て食う時に、出汁がよく出るかもしれない、それはそれで悪くないと考えて、

「じゃあ、Cさん、前足一本分の肉をあげるよ、その代わり、俺はあばら骨を貰って帰るけど、それでいいか?」って聞いたら、Cさんは骨なんかどうでもいい、前足の肉もらえるんなら、今晩はもも肉ステーキが食えると思って納得するかもしれません。

でまぁ、こうなってくると、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」みたいなもので、歴史的に本当にそう言う状態があったのかじゃなくて、ある種の「自然状態」を仮定して、今あるもの(ホッブスの場合は「国家」を説明していくみたいなもので、

この手の分け前についての議論がアッチでもコッチでも起こった結果、じゃあ、鹿の毛皮1枚は肉60キロ分ってことにしようって「数学」が出てきたみたいな「『鹿的』自然状態」、この前に、馬をつけると「馬鹿」になって、数学やるのは「馬鹿」なのか?みたいな悪い冗談になりますが、

実際に社会の中で起きるトラブルと言うのは、実は「数学」(的な理屈で出来ている法律や制度の枠組み、例:損害賠償みたいなこと)よりも「気持ちの理解」、さっきの例で言えば、肉は俺がもらうけど、あなたには毛皮の他に脳みそとか骨とか角をあげる的な方式で解決できる場合がけっこうあるわけです。

だから、ホッブスの議論、同様、「自然状態」から国家が生成されてくる「必然性」みたいなものがあるように、「分け前」をめぐる議論の「自然状態」から「数学」、人と人のコミュニケーションをめぐる「自然状態」から「翻訳」が生まれてくる必然性みたいなものがあるんだとして、

「国家」には「国家」の限界、「数学」には「数学」の限界、「翻訳」には「翻訳」の限界がある、

ただ、そう言う限界があることを理解した上で、なお、人と人のコミュニケーションを成り立たせるための道具として「数学」を学ぶ必要性と言うのはあるのではないか、

以上、数学の専門家の方との会話を経て、今の時点で思っていることのまとめでした。

最高気温は昨日6/7も30℃近くまで上がったようです。

台風3号が発生したようで、その影響なのか、来週前半は雨が降るとの予報が出ています。

ただ、その後は、雨が降らない日が続き、28℃-29℃と真夏日一歩手前の日もかなりあると予想されています。

実際には、真夏日一歩手前ではなく、本当に真夏日になるかもしれません。それにしてもゴーヤの芽が出てほしいです。

再度のまき直しが必要なのか、今からまいて、「真夏」に間に合うのか?、それとも既に「真夏」だから、意外と間に合ってしまうのか?どうなのでしょうか

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