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善悪以前に、人間の本性はウシの本性と同じなのか?

善人が不幸になり悪人が幸福になる…
「天道、是か非か(天の道は正しいのか、間違っているのか?」

史記・伯夷列伝は、この問いを投げかけます。

「善」と「悪」について、かなり興味深い考察をしているのが、諸子百家のひとり「告子」です。

性善説を唱える孟子との論争において、告子はこう述べています。

「食と色は性なり」
(人間の本性は善とか悪とかではない。食欲や性欲である。)

孟子は「性は生」、つまり、生きていると言う事が人間の本性だとする告子にこう問いかけます。
「白きをそれ白しと言うがごときか」(「白くある」と言う事を白いと言うのと同じ理屈か?)

告子は「然り(そうだ)」と答えます。

孟子は「白羽の白きは猶白雪の白きがごとく、白雪の白きは白玉の白きがごとくか(白い羽の白いと言うことは、白い雪が白いと言うことと同じか、白い雪の白いと言うのは白い玉の白いと言うことと同じなのか)と尋ねると、
告子は「然り(そうだ)」と答えます。

この孟子と告子のやり取りは、「AがBである」と言う表現が何を意味しているのかについての考察として、興味深いものがあります。

つまり、告子は「A(人間の本性)はB(生きていると言うこと)だ」と言っているわけです。

孟子の質問は、白い雪は色と言う事柄について「白」と言う性質を持っている、白い羽や白い玉も色と言う事柄について「白」と言う性質を持っている、

つまり、白い雪、白い羽、白い玉は、色と言う事柄を取り上げた場合、いずれも「白」と言う点で共通している、白い雪の「白さ」と白い羽の「白さ」に変わりはないと言う事を確認しているわけです。

つまり、「AがBである」と言う場合、厳密に言えば、P(「白い雪」)のA(色)について言えば、B(白)と言う事を言っていると言う事を孟子は確認しているわけです。

そして、P(白い羽)、Q(白い雪)、R(白い玉)がある時、PのA(色)、QのA(色)、RのA(色)は、いずれもB(白)である、

この時、P(羽)のA(色)のB(白さ)もQ(雪)のA(色)のB(白さ)もR(玉)のA(色)のB(白さ)も

A(色)がB(白)である時、「色が白い」と言う事になる、
P(羽)の色の白さも、Q(雪)やR(玉)の色の白さも「色の白さ」については同じであると言えると言う確認なわけです。

告子が羽の色が白いのも雪や玉の色が白いのも「あるものの色が白い」と言う点では同じだと返事するのを聞いて、
孟子はこう聞きます。

然らば則ち犬の性は猶ほ牛の性のごとく、牛の性は猶ほ人の性のごときか。
(だったら、犬の本性はウシの本性と変わらないのか?
ウシの本性は人の本性と変わらないのか?)

人間(P)の性(A)が生(B)であると言う場合、
犬(Q)の性(A)も生(B)だし、
ウシ(R)の性(A)も生(B)であると言えるだろう。

つまり、P(人間)についてもQ(犬)についてもR(ウシ)についても、
性(A)は生(B)であると言うのは、同じだということになる。

要するに、告子の言っている事は、人間の本性と犬の本性、ウシの本性は同じなのか?と言う話なのか?

と言う問題を投げかけていることになるわけです。

この孟子・告子論争が重要なのは、史記が投げかけるように「善(人)・悪(人)」について議論する場合、

そもそも、人間は「善・悪」と言う価値判断をしているが、
その判断はなぜ生まれてきているのか?

と言う問題に関わっているからです。

孟子の問いへの告子の返答は、「善・悪」についてかなり面白い視点を提供しているのですが、

その点は、また次回に述べたいと思います。

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