マルセル・モースの贈与論を読んでいて、ちょっと気になったことがあります。

あなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとします。
そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返しに何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、ついで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。
私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この2つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。

この記述は、2つの事を言っていると思います。

第一には、モノには霊があり、贈与、すなわち、モノを貰う、お返しをすると言うやり取りでは、モノとともに、そのモノの霊がやり取りされていることです。

第二には、お返しをしなかった場合、「霊」を持ち続けることになり、悪いことが起きると言う事です。

では、以下のような記述はどうでしょうか。

メラネシアとポリネシアでは、贈り物には確実にお返しをしなければならない。その「確かさ」は必ずお返しされるという贈り物ーーそれ自体が「確かさ」であるの性質の中に含まれている。
しかし、どんな社会においても贈り物の性質の中に期限付きでそれを返す義務が含まれている。
贈与は必然的に信用の観念をもたらす
あるいは何かの奉仕を首長、家来、親戚から受けた時にも彼らに贈り物をして感謝の意を示さないでよい時はない。こういう義務を果たさないと少なくとも貴族にとって礼儀に反し、地位を失うことになりかねない。
返礼の義務を怠った時の制裁は負債のために奴隷になることに他ならない

これらの諸記述を最初に紹介した記述群と比較してあれっと思うわけです。

モノには霊があるよ。お返しをしないことは、その霊が自分のところに留まり、最初の所有者のところに返さないことになるよ。そうすると悪いことが起きるよ。

貰ったらお返しをするのが義務だよ。お返しをしてもらえるって言うのが信用の基礎だよ。お返しをしないことは礼儀に反するよ。お返しをしなかったら制裁を受けるんだよ。地位を失い、奴隷になるんだよ。

つまり、最初の記述群は、お返しをしなかったら、霊の、言わば「祟り」があると言っているのですが、二個目の記述群はお返しをしない場合に起きる事は人々からの制裁であると言っているのです。

祟りと制裁の間にある飛躍、この飛躍に、現代社会にも通じる「社会のルール」の根底に横たわる思想が存在しているように思えます。




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