死は何もない
先日、祖母が死んだ。誕生日の日に死んだ。
死因は脳梗塞。苦しまずに死んだと聞いた。
祖母はひとりが好きで、夫である祖父が死んでからは自由に生きた人だったので、過ごした時間は少ないが、ぼくは好感をずっと持っていた。
晩年は大量の処方薬を過剰摂取して言動に混乱が見られ、それがぼく以外の家族をひどく傷つけたらしい。
ただぼくは海外に住んでいたので、その荒れていた期間は知らない。海外に出る前も帰ってきてからも、風変りだが優しい、小さい頃と変わらない、ぼくの「おばあちゃん」だった。
日本に帰ってきた頃、祖母の精神面の調子は良く、妻を紹介して喜んでもらったのを覚えている。
家の中で転んでから歩けなくなり、ひざには人工関節を入れる手術をして、体調は著しく悪化していき、病院に泊まっているとき、子どもを連れていった。
ぼくは移住していたフィリピンに染まっていたので、躊躇なく彼女の手を握った。祖母は素直に喜んで、もっと握ってと言ってくれた。子どもの手も握らせた。子どものことを紹介したら僕に似ていると喜んでいた。
その後コロナの関係で、入居した老人ホームに行けなかった。行こうと思えば行けたのだ。だが一人で話すことはできないと躊躇した。
父母と一緒に行くタイミングを計っているうちに、あっけなく死んでしまった。
通夜・葬式の打ち合わせのため葬儀会社に父母と出向いた。畳の間に顔を白い布で隠した祖母が寝ていた。その布をめくり祖母を見た。
祖母の歯は浮き出ており、笑っているように見えた。ただまったく動かない祖母を見るのはとても不思議だった。
電源が切れたコンピュータのようだなと思った。祖母は一切動かないのだ。
ぼくは、死んでしまった人間の肉体に接する機会がいままでなかったので、これが初めてだった。
無だな、と思った。ああ、人は死ぬと無に帰るのだ。
天国も地獄も幽霊も怨念も何もない。ただただ人は死ぬのだ。そしてすべてが終わる。It is very still. 本当に何もなく、ただただ無に帰すのだ。
その後、通夜が始まり、祖母は棺の中で綺麗な化粧を施された祖母をみて、最後に祖母の頬に触れ、燃え尽きたあとの遺骨を見て、その思いは確信に変わった。
ただ純粋に祖母は消えたのだ。霊魂なんてものはこの世に存在しない。
だが、この確信はあくまでぼく自身の個人的体験なので、周囲に強要はしない。
宗教的儀式によって亡き者への未練に区切りをつけ、残された者(特に実の子である父)は生きていくしかない。
儀式は死を悼むために必要だ。
でもぼくには、その儀式が色褪せてしまうほど、強烈な観念に締め付けられた。
人は死ぬのだ。人は死を避けられないのだ。
祖母から最後に学んだことは、その厳然たる事実と、そのどうしようもなさと、諦念に似た安堵だった。
ぼくは彼女を思い返す。
死はなにもない。死は無だ。無に帰るのみなのだ。
彼女を思い返し、ぼくはいま生きている。
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