【エッセイ】あの夏の曾祖父へ
1945年8月6日午前8時15分。
あの日、わたしの曾祖父は広島にいました。
■曾祖父のこと
わたしの曾祖父は、わたしが生まれる前に亡くなってしまったので、写真でしか見たことがありません。
くりくりした瞳、小さく閉じた口元。
遺影の中の曾祖父は、もうおじいちゃんのはずなのに、少年のような顔立ちをしています。
「おとなしくて、子煩悩な人だった」と祖父母が教えてくれました。
数学を解くのが好きで、入試の問題が新聞に載ったときには喜んで解いていた。
ご飯を食べた後は、必ず「ああ、うまかった」と言っていた。
妻を病気で亡くした後には、ひとり畑に向かって、その名前を呼んでいた。
そんな曾祖父は、好奇心旺盛で、愛情深い人だったのでしょう。
戦時中は農夫をしていた曾祖父ですが、わたしの祖母が生まれた後、召集されました。そして配属されたのが、広島でした。
■あの日の広島で
以下は、祖母から伝え聞いた話になります。
1945年8月6日午前8時15分。
原爆投下の時刻、曾祖父は爆心地から4km地点にいました。
「きのこ雲が見えた」そうです。
そして終戦、復員。
家族のもとに戻った曾祖父ですが、体調が悪く布団から起き上がれずに、畑仕事ができないこともよくありました。
自分の脚の血管が目立ってきたときには、「原爆のせいかな」と気にしていました。
祖母が知っているのはこれだけです。
「曾祖父はあまり自分のことを語らない人だったから、広島でどんな兵役についていたのか、原爆投下後に何をしていたのか、詳しくはわからない」といいます。
■守られた地と奪われた地
原爆投下の夏からちょうど50年後、わたしが生まれました。
そしてわたしが中学生のときに、日光市が主催する「広島平和記念式典派遣事業」に参加しました。
日光から電車に乗って、わたしたち中学生は広島へ向かいました。
広島に到着し、平和記念公園を歩いていたときです。
「日光市」の名札を下げているわたしを見て、地元の人が声をかけてくださりました。
「日光から来たの。いいところがたくさんあるよね。地元だと当たり前で気づかないかもしれないけどね」
当時は「そんなものかな」と思っていましたが、今思い返せば、この言葉には考えさせられる響きがあります。
日光は、たくさんの文化遺産と豊かな自然で有名です。
昔々から培われてきたものを現代まで残せているのは、戦時中一度も空襲がなかったおかげでもあります。
一方で広島は、「原爆」で有名です。
それは世界で初めて使われた核兵器ゆえであり、一瞬にして失われた命の多さゆえ、そして生き残った者と次の世代を生きる者に与えた影響の大きさゆえでもあります。
守られた地と奪われた地。
■曾祖父を想う
一昨年、映画「この世界の片隅に」を鑑賞しました。
忘れられないシーンがあります。
原爆投下後、被爆した男性が、最後の力を振り絞って生家にたどり着く。
しかしあまりに変わり果てた姿に、実の家族でさえも、気づいてあげられない...。
わたしはこのシーンを見て、「あの地獄を、曾祖父も見たのだ」と確信しました。
爆心地から、外へ、外へ、逃げていく人たちを見たはずなのです。
被爆者の救助や遺体の収容、火葬にかかわったのかもしれません。
自分自身も黒い雨にうたれたのかもしれません。
空襲も原爆投下もなかった日光に帰ってきて、曾祖父はどんな気持ちだったのだろう。
安堵もしたことと思います。でも同時に、広島での出来事を誰にも共感してもらえないという孤独感も味わったのではないでしょうか。
だからその胸の内を誰にも話さずに、墓場まで持って行ったのではないか...。
■終戦の日
今日で、太平洋戦争の終結からちょうど75年が経ちます。
8月15日。「終戦の日」と言われる日です。
しかし、はたして、75年前の今日で戦争が終わったのでしょうか。
今でも、曾祖父にとって、あの戦争を生き抜いた方々にとって、そして被爆者の子孫の方々にとって、戦争はずっと終わっていないのではないかと思うのです。
さあい
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