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ヘルシンキ 生活の練習

電車に乗る時に手元に本がないとソワソワしてしまう。その程度には本が生活に欠かせない。
夏休みに実家に帰省し、持参した本を行きのかいじで読み切ってしまったので、帰りの本をと思って、甲府駅ビルの本屋でふと手にした。

学生時代に旅行した時に感じた、フィンランドの独特な空気感が好きだった。なんとも、大袈裟な感情表現がない。いや、笑顔もあるしみんな親切でハートフルだ。そうなのだけど、プラスα感がない。日本でケアの仕事に関わる私からすればあっさりして淡白にすら感じる。けれども、仕事モードではない本来の自分はたぶんこうで、それで良いと納得したい気持ちがあるのかもしれない。

なんて色々考えながら読んだ。著者の世界観よりは、フィンランドのネウボラ保健師や保育園の先生とのやりとりが印象に残った。

リーター(ネウボラ保健師)は最近私に教えてくれた。私がコントロールすべきなのは、子どもたちではなく自分自身だ。子どもの面倒を見るということは、子どもの世界に私が入ることではなく、子どもが子どもの世界を楽しむのをただ見守ることだと。

私は思いやりや根気や好奇心といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。(中略)
よく「褒めて伸ばす」と言う。
でも今になって私は、この「褒められた」という理解は間違っていたのではと思っている。
先生たちは、別にユキを褒めたわけではなかったのかもしれない。必要とされるさまざまなスキルのうち、ユキがすでに充分に練習を積んでいると思われる項目を挙げただけだったかもしれない。それは「褒める」という言葉を聞いた時に想像するような、肯定的な感情に満ちた行為ではない。

就学前教育で大事にしていることの説明
・基本的に今は、あらゆるスキルを練習している時期。できないことがあっても、喧嘩しても、意地悪なことを言ったとしても、それは「悪いこと」ではなく「いま練習中のこと」

「これからのスキルはすべて、一歳から死ぬまで練習できることですよ」

朴沙羅 ヘルシンキ 生活の練習

こんな育ちをしたからこういう性格になってしまって(だからもうどうしようもない、悪い)ということでもない。良い悪いじゃなく、練習が充分かそうでないか。褒めてもけなしてもいないし、無駄に相手を評価しない。

なんか、心にすーっと心地よい空気が流れ込んだ。そう、そういうことなのかもしれない。

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