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本ではない、ある文章について

久しぶりに対面の学会に参加した。
学会は楽しい。学会には、言葉がごろごろ転がっている。言葉を拾って顔を上げたとき、居合わせた相手と話し込める。初対面でも、また会うことはないかもしれない相手でも、高校のクラスで隣の席になったとしても決して深い友達にはならないであろう相手でも、楽しく会話ができる。苦しくない。その場では、会話に漂う不安から解放されている自分に気づく。

そんなわけでとても楽しい2日間を過ごした帰りがけに、知り合いに会った。喫茶店でカフェオレをご馳走になった。その人と私は知り合いでありながらも、そこまで共通点はないし、会うのは多分10年ぶりくらい。これまでにこうして1時間話し込んだのも初めてだ。それなのに、学会で同じ場に居合わせたことで、他の誰とでもあり得なかったほどに安心安全に、会話を楽しんだ。

そして、帰りがけにある文章をシェアして貰った。偶発的にギフトが送れる。しかも「お礼をしなきゃ」という負荷を相手に与えない。軽やかだ。(カフェオレのお礼はしたかったのに、チョコレートの一つも持ち合わせていなかった、わたしはいつも脇が甘い)

帰りの新幹線の中でじっくり読んだ。知らないうちに涙が出ていた。何で泣いたのかもよくわからない。具体の内容で泣いたのではない。この意味付けが本当に正しいのかはわからないが、たぶん、書き手のナラティブに対する謙虚な姿勢と、書いている対象への敬意と、書き手が産み落とす言葉の清さに、希望のようなものを感じたのだろう。新幹線を降りると、新横浜から例の如く同じ格好をした若者たちに囲まれ、混んだ電車に流れ込んだが、私の目の前の景色は、曇りがなかったし、静寂だった。

今更だけどなぜ本にこだわっていたんだろう。文章や言葉は、無数に生み出されている。




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