進撃の巨人ラスト付近のありがとうと愛の考察
※6/12タイトル変更しました
そろそろ進撃の巨人の最終巻が発売される時期だったと思うので、最終話の感想を書いておこうと思う。
私はきほん単行本派だったのだが、最終話はネタバレを踏みたくなかったので電子で雑誌を買って読んだ。
とても泣いた。
そしてその気持ちを最終巻が発売するまでにnoteにでもしたためよう、まだ時間はたくさんある……と思っていたらなんともう明日、最終巻発売である。
光陰矢の如しとはこのことだ。
昨今の単行本は雑誌から加筆修正が大幅に入っていることも珍しくないので、単行本になる前に自分の感想をまとめておきたかったのに。
なので急いで感想を書いておこうと思う。
いま手元に古い単行本がないので、最終回付近を読んで『このセリフどういう意味だっけ?』と思うところがあったりしたのだが読み返しができず、他の人の考察を少し見てみたりしたがそのセリフについて書いている考察は発見できなかった。悲しい。
さて、いきなりだが最終回のセリフについて私が感じたことをまず書いておきたい。
そのセリフはアルミンの「エレンありがとう、僕たちのために殺戮者になってくれて」だ。
このセリフ、考察の得意な人とかがいろいろ考察したりしていて、読者的にもすごく印象深いセリフだと思う。
エレンのことをどうしてでもとめよう、人類の滅びをとめよう、と命をかけるアルミンがエレンに対して「ありがとう」という。
殺戮を止めたかった側が、殺戮をやめなかった側に「ありがとう」
なかなかアンビバレンツで衝撃的なセリフだ。
このセリフはたぶん最終巻で一際議論を呼ぶセリフだろう。
すなわち、どこにかかる「ありがとう」なのか。
私はこのセリフはその直前のエレンのセリフ「なんでかわかんねぇけど、やりたかったんだ、どうしても」と、もう少し前にいった「オレは頭がめちゃくちゃになっちまった。始祖の力がもたらす影響には過去も未来もない…同時に存在する。だから…仕方が無かったんだよ…」のセリフに対してのアルミンの返答だと思っている。
エレンは人類虐殺を「仕方がなかった」=ほかに選択肢がなかったと言っている。
だがその後にアルミンに地表をまっさらにしたかったのは何で?という疑問には「やりたかったんだ、どうしても」と自分の意思でそれを選択した、という返答をしている。
つまりこの時エレンの思考はそうとうな混乱状態にあるのである。
「自分の意思で人類を抹殺したかった」のと「自分の意思の及ばないところで運命は決まっていた」というジレンマ。
この二つの思考を重ねると、エレンは「ユミルの感情に飲みこまれ始祖の一部として行動する選択にあらがえなかった」が「それを自分の感情だと思い込み、またその衝動に従うことによって、自分が自由であることを信じたかった」状態だったのだろう。
編集部のあおりでもエレンは「自由を知りたかった少年」となっていた。
自由を手にいれたわけでも、自由にふるまったわけでもなく、エレンは自由に憧れただけの少年だったのだ。
エレンが人類の多くを殺戮してまで手にいれたかった「自由」
しかしアルミンは直前の会話の内容で、エレンが始祖の感情に支配されていることに気が付いた。
だけどそれを伝えてしまってはあまりにエレンが不憫ではないか。
自分が許されるはずがない、本当はみんなと一緒に生きたい、みんな死にたくなかったはずなのに自分が殺した。そう後悔しながらも「その選択は自分の自由意思によって自分が選択した、だから自分は自由なのだ」と思っている親友にかける言葉。それが「ありがとう。僕たちのために殺戮者になってくれて」
そう考えるとこのセリフはすごくしっくりとストーリーに馴染んだ。
このセリフは、お礼の言葉ではない。
「きみは確かに自分の意思でその行動を選んでいるよ」という、アルミンからのメッセージなのだ。
ちなみにこのセリフの最中に出てくる回想の赤ちゃんエレンの目の描写が、レイス家の初代王の思想に取り込まれた王様の目の描写に似ている気がするので、たぶんこれは誰かの思考の道筋に飲みこまれてしまう人間の描写なんじゃないかなと思っている。
次に始祖ユミルの感情について書き留めたい。
始祖ユミルがカール・フリッツを愛していた件についてだ。
これもたぶん読んだ人がえ、と驚くポイントだと思う。
しかし心の奥深くはわからない、とユミルがカール・フリッツを愛した明確な理由は一切描写がされていない。
明確な理由が描写されていないことから、人によっては始祖ユミルは本当にカール・フリッツを愛していたのか?という疑問が生まれることもあるかもしれない。
でも原作で言及されていることから、始祖ユミルは本当にカール・フリッツを愛していたものと思われる。
ならばなぜ、始祖ユミルはカール・フリッツを愛してしまったのか?
それは進撃の巨人の世界が「世界は残酷だ。されど美しい」という理念で構築されているせいであると思う。
そもそも愛は不条理であり、理由がないものでもある。
エレンはかつて母に「特別である必要はない。生まれてきただけで愛される価値がある。だって、こんなにかわいい」と存在のすべてを肯定されている。
おそらくそれは、カール・フリッツも同じなのだ。
愛されること、愛することに、明確な理由なんて存在しないし、しなくていいのだ。
ただ、人が人として生まれ生きていれば、それだけで誰かに愛される価値があるのだ。
進撃の巨人の世界では、たまたまそれがカール・フリッツと始祖ユミルに適用されてしまったがために後の世まで遺恨を残すこととなるが。
だから進撃の巨人の世界は残酷だが美しいのだ。
あと最終巻収録になる中で気になった描写は、ミカサがエレンと逃げる夢の中で涙を流したシーンだ。
エレンは確か物語の始まりで、いつの間にか眠っていた夢から覚めたときに自分でも気づかないうちに涙を流していた。
そう、ミカサが最終回直前に夢の中で涙を流したシーンが、物語冒頭の描写とそっくりなのだ。
このことから考えると、もしかしたら進撃の巨人のメインストーリーは全てエレンの見た夢である可能性があるのかな、なんて考えてしまう。
最終的な顛末の地獄っぷりをみると、いっそすべて夢であってくれた方が嬉しい気さえしてくる。
もしかしたらミカサが夢を見るエピソードは、そう思い込める救済として挟み込まれたエピソードなのかもしれない。
あとは進撃の巨人後半のエピソードに関しての軽い感想をいくつか。
オニャンコポンが言った「神様がいろんなやつがいた方が面白いと思ったから、肌の色を変えたりした」
ってすごく思いつきでノリが軽くて無責任な神様で、百点満点て思った。最高。
サシャはここまで生きてたらもう最後まで生きてるだろって安心した瞬間に死んで悲しかった。
でも読んでて一番泣いたのは、キャラクターが自由を手にいれるために命をかけていると感じたところだった。
つまり、自由って得難くて魅力的で、尊い。
それを思い出させてくれた進撃の巨人、ありがとう。
さはら
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