見出し画像

表現や言論の自由に限らず、普段の言動も含めて、相手の気持ちを想像できないと暴力になる。

#先日の余談

<脱稿:80%ぐらい(698W)>

フランスの週刊誌「シャルリー・エブド」で起こった残忍なテロ。

シャルリー・エブドは、社会批判として風刺画を用いており、その一部でイスラム教徒から反発を抱く内容のものがあった。社会批判をすることが表現の自由、言論の自由として行われた。描かれた風刺画は相手の気持ちを逆撫でする「暴力」として捉えられたのだろう。

風刺画を公表することへのリスクが具現化したのがテロとしての報復。ペンにはペンをではなく、自由(暴力)には暴力を、という事件となった。

社会に対して自らのメッセージを送ることができることは、人の尊厳にも通じつとても大切なこと(権利)。表現者やアーティストはその権利を才能を持って行使することだろう。

それは、人として誰であったも、何処にでもある日常。

その数日後、テロ組織に拘束され、身代金や同胞の開放を条件として要求され、応じないと悲劇となるという事件が起こる。その事件に対しての揶揄するコラージュが広まる。その多くの行為は無責任で不謹慎なことなんだと思うんだけど、、

交渉が互いの代表が行うルートだけでなく、世界中が繋がっていることを改めて認識できる。日常会話だけでなく、発した言葉は広がる。普段、意識はしている想像力を上回る伝播力がソーシャルネットワーク(インターネット)という媒体にある。

同じ言動であっても、その背景にある環境や常識が異なるとその意味の捉え方が異なる。相手の気持ちを創造できないことが、無意識や無知が罪であり暴力となるのだろう。コミュニケーションは発するということではなく伝えることに軸を置くことが大切なんだ、ともすればデリカシーの無いマスターベーションに過ぎない。

自戒を込めて

<言葉> #自由 #暴力 #デリカシー

僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。