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広隆寺(蜂岡寺)、京都の寺院の中でも良くも悪くも別格なんだろうか...

まったくまとめて切れていないです。やる気が…

広隆寺(こうりゅうじ・蜂岡寺とも)

飛鳥時代603年(推古天皇11年)、当時この一帯の有力者であった秦河勝(はたのかわかつ)が建立したとされている。山城地区でも最古でもあり、摂政であった聖徳太子とのかなり深い繋がりがあった寺院の一つ。

その広隆寺には国宝第一号である「弥勒菩薩(宝冠弥勒 ほうかんみろく・弥勒菩薩半跏思惟像 みろくぼさつはんかしゅいぞう)」が現存している。境内の奥にある霊宝殿には、弥勒菩薩のほか、十二神将立像など、およそ20点ほど仏像が収蔵されており、秦河勝夫妻とされる伝秦河勝像、伝秦河勝夫人像も含まれている。

そして、広隆寺(蜂岡寺とも)を建立するきっかけにとある仏像が関係している。この仏像が「弥勒菩薩半跏思惟像」なのだろうか…

聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の「楓野村(=現在の葛野)」の「蜂丘」の南に宮を建て、その宮を秦河勝が一族を率い敬うことを怠らなかったので小徳に叙され、また宮を賜ったという。後に新羅の仏像を賜った際には宮を寺とし、水田數十町並びに「山野の地」等を施入した。これが広隆寺である。
一方『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺」を建てたという。

Wikipediaより

そんな秦河勝を祀る大酒神社は、広隆寺の東隣にあることから、かつての広隆寺境内だろうね…


木嶋神社(蚕ノ社)の神幸祭

冒頭写真は、「木嶋神社(蚕ノ社)」の神幸祭(毎10月)の御神輿渡御のルートに広隆寺が含まれており、広隆寺境内の上宮王院太子殿(聖徳太子が祀られている)の正面に神輿を座して、住職による読経を受けるところ。木嶋神社は広隆寺から500mほど東にあって、その御神輿(大神輿)は文政8年(1825年:江戸時代)頃、広隆寺によって作られたとされており、秦氏の影響下としても神仏習合としても一括りで良いように思う…

ちなみに渡御の予定として12時半ぐらいを目安に広隆寺には到着して、住職の読経を終えるとお昼休憩に入り、境内でお弁当をいただく。その流れで霊宝殿にある弥勒菩薩を拝観する(法被を着ていると無料拝観!)というのがいつものルートになっているw

また、嵐電に「太秦広隆寺」という駅があって、僕の最寄りの駅になっているんだけれど、この前の交差点が、路面電車(嵐電)も入り混じっており非常に複雑という印象が強い。

太秦の牛祭

ここ10年以上開催していない(少なくとも僕が引っ越してからは未経験)、広隆寺の祭事の一つだと聞くが、同じ町内であるご近所の和菓子屋「萬為(まんため)」さんの店内には牛祭の資料をまとめられており、詳しくは店主である藤田さんにお話しを聞くのも良いんじゃなかろうか…(まだ未着)

太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。

Wikipediaより

↑ということはやっぱり大酒神社は広隆寺境内にあって、京都で秦河勝を祀るお祭りが広隆寺の「牛祭」ということなんだろうね。


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まえがき
木嶋神社(木嶋坐天照御魂神社)
 ・木嶋神社の年中行事
 ・養蚕神社(蚕ノ社)
 ・元糺の池
 ・三柱鳥居
大酒神社(大避神社)
広隆寺(蜂岡寺)
・天塚古墳(白塚)



以下、参考資料(ざっくりと集めた感じ)

広隆寺が建立されたのちとなる平安時代では官寺である東寺と西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかったとされている。

広隆寺には諸説ある。
北野廃寺の寺名や沿革については、『日本書記(10)』に記載された葛野蜂岡寺をこれにあてる説や、広隆寺を蜂岡寺、北野廃寺を葛野秦寺とする説などがあるようだ。

北野廃寺・北野遺跡 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2016 -16

北野廃寺跡 (京都市北区)

北野廃寺跡

ただ、そんな北野エリア(北野白梅町)と広隆寺とは、嵐電の路線として今も繋がっており、人の往来が今も続いていると思うと感慨深い。



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