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赤穂ギャベとは #enu

ファンコミュニティコマースENUに投稿したストーリーをnoteにも転載してみるテスト♪ (当該ストーリー


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わたしたちは兵庫県赤穂市御崎にて、赤穂緞通で培われた技術に柔軟な発想を取り入れて、今の暮らしに合うように、綿糸でつくる手織りの椅子敷きを制作しています。「織る」という行為自体も大切にしたいと考え、ワークショップ、研修生、綿糸の販売もサポートしています。

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百年余前、赤穂ではシルクロードによって運ばれた大陸の絨毯をもとに、日本の風土に合わせ綿糸でつくられた手織りの絨毯「赤穂緞通」が生まれました。

羊毛を使った手織りの絨毯ギャベは、遊牧民が日々の暮らしの中で実用品として使うために織られています。その広漠な草原や山岳地帯の光景はシルクロードを通して瀬戸内の海辺の開放感へと繋がっています。


... そんな思いを馳せながら、赤穂緞通の織り手の有志があつまって開発した敷物を「赤穂ギャベ」と名付けました。

<赤穂緞通とは>

江戸後期から明治初頭、中国の万暦氈に魅せられた「児島なか」が、緞通の技術・研究を独自に重ね、26年もの歳月をかけて生み出された敷物です。

当時、赤穂では塩田に従事する女性たちが多く集まっており、その豊富な労働力によって殖産興業として賑わい、日本三大緞通と呼ばれる規模にまで発展しました。明治末期には御召列車の敷物として天蚕を使用した赤穂緞通が採用され、その後も東宮御船、枢密院王座の敷物としても重宝がられたとされています。

現存している古作の緞通をみても、赤穂緞通らしさとして代表的な文様(柄)もありますが、その多くは柔軟なアレンジが加わっています。茶人、名のある料亭、お茶屋などに好まれ、遠く海外にも販路を広げていた全盛期、織り元に舞い込む依頼主の造詣の深さが大きく影響していたのだと想像されます。

昭和13年の綿花統制や、戦後の近代化の影響もあって赤穂緞通は衰退の一途をたどります。平成に入り織り元が一軒のみとなった頃、赤穂市によって「赤穂緞通織方技法講習会」が開催されるなど復興の兆しが生まれ、今日では小規模ながらも緞通に魅了された織り手が個々に工房を営み日々研鑽されています。


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ENUに投稿したストーリーをnoteにも転載してみるテストです。

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・当該ストーリー https://www.enu.app/post/231


#赤穂ギャベ #赤穂緞通 #ENU

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