愛の子ども

 目を逸らした。けれど引き戻される。心臓の鼓動はそのつど半拍速まっていくようだ。薄い赤い線が判定窓に記されている。鋭すぎるナイフが愛の心臓を貫き、呼吸がうまくできなかった。
 愛は立っていられず、トイレの床に座り込んだ。緑を下地にしたチェック柄のスカートから白い肌がのぞく。涙があふれそうになるが歯を食いしばって耐えた。スカートからのぞく白い足に爪をたて血がにじんだ。泣いたら自分を保っていられない。私は、泣いていない。だから、大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせる言葉が嘘なのは誰よりも自分がわかっていた。
 どうしよう?
 答えのない不安が愛の胸を蝕んで朽ち果てるまで、侵食する。トイレの個室は宇宙で一番孤独な場所だった。
 どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう?
「愛、ご飯よ」
 階下から母の呼ぶ声がして、あふれそうになった涙は引いた。鼓動は痛いくらいに早い。返事をしなきゃと声をあげるけどかすれた声しか出てこない。母に悟られてはいけない。それだけは、絶対に。これまでの努力が全部無駄になる。
「愛ー、できたわよー」
 もう一度母の呼ぶ声がする。母の声が愛の中の決まりを愛に思い出させる。それは愛の手の及ばない範囲の出来事だった。愛は愛自身からはなれていく。愛の魂が分離していく。苦痛がある体と苦痛から自由になる体へ。輪郭がぼやけて、愛は頭から肌を突き破り抜け出る。シャム双生児のように下半身だけを共有して、上半身はわかれ頭は二つになる。
「はーい。今から行くよー」
 嘘偽りのないいつもと同じ、優しくほがらかな愛の声だ。それは左半身の頭がいった。愛はいい子でいなきゃいけない。
「もう、あの娘ったらマイペースなんだから」
「勉強でも頑張っているんだろう」
「姉ちゃんが勉強なんてすると思う? 漫画でも読んでるんだよ」
 リビングで母と父と弟の博己が好き勝手愛のことを話していた。
「お父さんもちゃんと言ってあげてね。人生がかかる大事な時なんだから」
「心配ない。吹奏楽部で副部長をしているんだぞ。私たちが思っている以上にしっかりとしているさ」
「また私のこと悪く言ってるでしょう?」
 愛は事実を忘れていたわけではないけど、それは遠くの蜃気楼でリアルに愛に迫ってはこない。もう何も痛くない。何も見えない。
「違うよ。姉ちゃんを褒めていたんだ」
「早く来なさい」
「今から行くよ」
 愛の数少ない特技。愛は自分自身からはなれている。それは魔法ではなく、呪いだった。中学校の頃の母から生き延びるために身につけたものだった。
 階段を降りて、リビングへ。テーブルについた家族が愛に優しく微笑みかけた。愛の大好きな黄金に輝く母の特性オムライスが並んでいた。愛も満面の笑みで微笑み返した。
「博己だって来年受験生でしょ。私のこと言えない」
「高校にはサッカーで行くんだ。勉強なんてしなくてもいい」
「あんたの実力じゃ推薦枠ぎりぎりなんでしょ。勉強もしとかないとだめだよ」
「見てろよ、姉ちゃん。来年が楽しみだ」
「あんたたちいい加減にしなさいよ。冷めるでしょ。愛も早くスプーンを取ってきなさい」
 オニオンスープから湯気がたつ。オムライスの卵は半熟でとろとろでふわふわだ。愛がまだ幼稚園の頃に、レストランで食べたオムライスを再現するようお願いした。母は失敗を重ねながらも練習をして、愛の家から固い卵のオムライスはなくなった。母が自分を思ってくれたしるしだった。
「お母さんが作ってくれたんだ。早く食べなさい」
 食器棚からステンレスのスプーンを取り、席についた。父が手を合わせ、愛たちはそれにならう。
「それでは、いただきます」
 スプーンでオムライスをひとすくいする。大好物のオムライスを何の感情もなく食べていく。味はしない。
「どうしたの? 愛。顔色悪いよ」
 母が心配そうにたずね、愛は慌てて首を振った。気づかれてはいけない。私は私のままいてはいけないのだから。
「ううん、何でもないよ。ちょっと部活の疲れがたまってるのかな」
「姉ちゃんが珍しいな」博己が茶々を入れるが母は真剣だ。
「今が追い込みの時だもんね。そういう時だからこそ、ちゃんと食べなきゃだめよ」
「あんまり無理はするなよ」父が言う。
「うん、何とか頑張るよ」
 食卓では博己の次のサッカーの試合で盛り上がっている。母が二人をほほえましく見守る。数年前には考えられなかった一家団欒の風景だった。愛はオムライスを胃袋に押し込んでいった。
「野球部の試合も来週だもんな」
 急な一言は分離している右側の心臓を貫いた。愛は一瞬うろたえるが、すぐに左側の愛がその事実をなくしていく。
「決勝戦なんてすごいよな。甲子園に行くかもしれないぞ」
「そうなったら愛たちも甲子園で演奏するんだもんね。次は勝ってもらわないと」
「私たちも来週は応援しに行くよ。サッカー以外は面倒くさがりの博己を引き連れてな」
 父の冗談に母はけたたましく笑う。博己は意味深にニヤニヤと愛を見つめる。
 博己には愛と野球部の斉藤が二人並んで歩いているのをみられたことがある。必死に頼み込んで両親には黙ってもらったけど、博己は「なんでだよ。別にいいじゃん」と真剣には取り合ってくれなかった。今のところ黙ってはいてくれる。だけど、話したくてうずうずしていることが伝わってくる。
「偶然だよ。決勝にいったらころっと負けちゃうよ」
 話を打ち切りたくて心にもないことを言う。心の動揺は悟られない。うまく上手に左側の愛が取り繕った。
 愛はこっそりとなるべく目立たずに残りのオムライスを食べていった。ごちそうさまと言って手を合わせ、食器を台所に運び水につけた。
リビングから出るとトイレに駆け込んで、食べたばかりの夕食を吐き出した。形がほとんどそのまま残る。口から胃液が垂れるのを拭わずに放っておいた。
 愛はいい子だった。生まれてから叱られたり怒られたりすることはほとんどなかった。空気を読んで、その場にいい子として振舞った。先生から好かれ、同級生からも好かれた。愛はとてもいい子だった。
 愛にはそんなつもりは無かった。けれど気が付くと、愛は拳を振り上げていた。愛は自分でも何をするんだろうと不思議にその腕を見上げた。時間が経った。すると、愛は加減もなく思いきり子宮を打った。拳は愛から独立した生き物で明確な意思を持っていた。
 お腹の中にいる子供を子宮から引き剥がすために。
 愛には止められない。
 鈍い音が幾度も響いて、ようやく止めなきゃという思いがうまれた。
 痛みが走るよりも先に、ひどいことをしてしまったとの後悔が愛を襲った。
「ごめんね、ごめん」
 お腹を優しくさすり謝り続けた。痛みはまるで感じない。
「ごめんね」
 愛はお腹に手を当てたまま自分の部屋に戻った。イケアのデスクを学習机として使っている。楽譜が棚に敷き詰められている。携帯電話のホームボタンを押すと斉藤からのメッセージが表示された。
「よお、部活終わったぜー」
 今だけは彼のメッセージを見たくなかった。

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