シャニマス 「ア・冬優子イズム」の話

引いた。


✌️✌️

引いた話、なので、まだ全然コミュは読んでいない。イラストを見ただけの雑感でも書いておこうかな〜。

とか言いながらいきなりイラストについての話ではないけど、「ザ・冬優子イズム」とどう対比させてくるか、めちゃめちゃ楽しみだし、怖い。

「ザ・冬優子イズム」は冬優子さん最初のPSRということもあって、その性格を紹介するような内容だったように記憶している。
なんだかんだ口悪く言うけど真面目で、アイドルに対して強い思いを持っていて、勝ち気で、熱いところがあるとか。一方で内に秘めた趣味があって、他人というものを悲観的に考えがちだとか。

まだまだ初期の冬優子さん

まさに「the」という定冠詞で表すにふさわしい、「これが黛冬優子という人間です」というような内容だった。
それに対して、今回、不特定冠詞である「a」を使って表していることにどんな意味があるのか?

個人的には、その表現の違いに、「黛冬優子」という人間の生き方が拡大されていくような感覚を見ている。
それは言ってしまえば「冬優子」と「ふゆ」の境界が曖昧になることへ発展すると考えている。
冬優子さんをとりまく物語はどこまでも分人主義的だと思っているので、今回もその延長だと思う。

冬優子さんはこれまで、世間一般的に「本物」だと言われる「素の自分」だけが本当だと思われたくない、対人の中で育てられた「ふゆ」としての自分だって本当だ、ということを表現し続けてきた。

少し余談だが、「ペルソナ」と「分人」とは似ているようで異なる側面を持っている。
「ペルソナ」は他者によって変容する人間像を捉えた概念として、「分人」と近しいものであるように感じる。しかし、キャラクターを演じる、仮面をかぶるという行為は、どこかに「本当の自分」が存在していて、仮面や演技の自分とその中身の自分とに価値の序列が生じるということが前提になる。

一方で分人は、「自分がどういう振る舞いをしているのか」という視点を出発点として、生活の中の事象を認識することができる。
つまり意図的に性格を切り替えるというより、他者認識においてどれだけ人物像が異なっていても、本人にとっては「自然とそうなっている」に過ぎないという考え方になる。

結果として、他者認識において「素のあの人」「取り繕ったあの人」という差異が生まれていても、本人にとっては全て「本当の自分」なのである。

冠詞の話に戻ると、定冠詞で表されていた「黛冬優子」はどちらかというとペルソナ的で、不定冠詞で表される「黛冬優子」はどちらかというと分人主義寄りだと言えるような気もしてくる。
アイドルとして世界が広がって、そうするとその分、冬優子さんが冬優子さんとして世界と接する「分人」のチャンネルがどんどん増えていくことになる。
より曖昧なグラデーションで、「これが冬優子」「これがふゆ」といったように、生き方が明確に区別できなくなってきているのではないか。
そして、どの冬優子さんも冬優子さんの生き方として肯定されていい、と私は考えているので、そういうコミュだったら嬉しいなあ平和だな、でもそうはいかなさそうだな、と頭を抱えている日々だったりする。

個人は不可分なものではないけれど、可分なものでもない。
そして、分人主義により「本当の自分とは何か」という問いからは解放されても、「自分は何者なのか」という問いから脱したことにはならない。
グラデーションのように変容する自分のキャラクターその全てが本物だと認めたうえで、では一体生きていくうえでどういう人間に向かっていけばいいのかという、根源的な生きる意味についての苦悩は、決して幻想ではない。
そういう意味で、冬優子さんが「これがふゆ、って胸を張れるアイドル」になる、と発言していたことが、最終的にもし、冬優子さんを取り巻く物語としてそういう着地をするのなら、そのときはもう、論文を書きます。

結局、絵の話をぜんぜんしていない。
ポニーテールだと、冬優子さんの髪が綺麗なストレートなんだな〜ということが強調されて、非常に良い…おかおが天才…ありがとうございます。

それで言うとこの水着は冬優子さんがデザインしたと4コマで見たけど、今までの冬優子さんだったら「ふゆ」のイメージのためにわかりやすい「かわいい」を選択しそうなところをそうしていないという点にも、先ほどの論が少し補強されるような気がしている。

早くプロデュースをしましょうね。

おわり

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