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キリスト教共同体としてのべてるの家に相応しい正義について

(10/22、ハワード・ゼア『修復的司法とはなにか』からの抜粋を、ところどころ加えました。一読済みの方は流し見すれば気づくと思います)

「私は、永遠に幸せ(ゼーリヒ)であろうという願望に対して、我慢がならない。われわれの教会が人々に、幸せになることしか教えないことに、怒りを覚える。われわれは、先ず《正しく》あろうとするべきだ」(クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト)井上良雄著『神の国の証人ブルームハルト父子』p279

(わが国における認知行動療法の第一人者、伊藤絵美先生、ちょこっと推薦!諸事情で有料記事扱いにしていますが、ほぼ全文無料で読めます。詳しくは「サポートについて」をお読みください。)

(斎藤環先生も認めたポエトリーアーティスト、松岡宮さんも興味津々!)


サポートについて

前回、「これが無料で読めるのは勿体ない」などと上辺のおべっかを使いながら、自分で調べればわかる様な引用の引用元を尋ねてきた来た図々しい酷使魔がいたので、「そう思うなら金をくれ」と返したところ「文章で金を稼ぐというような俗世間に順応した人間に払う金は無い」と、私の論考のきっかけになった事件の一つが未払い労働だった事を思えば信じられないほど人を舐めきった対応をされ、読者というものへの心象をかなり損ねた。

本論も以前と同様、全文無料で読めるが、拙論に価値を認めたなら、あなたはサポートでその認識を誠実に行動に移すが良い。私としては値段は高ければ高いほどいいが、する側で自由に選べる。どうやらサポートは500円からしか出来ない様なので、それ以下の価値しか認めない人向けに、300円での記事購入も出来るようにしておいた。読むこと自体はほぼ全文無料で出来るので安心して貰いたい。どうせならと思い有料コーナーも少しだけ設けたが、本論と殆ど無関係なお遊びである。300円以上の価値を認める人は、購入ではなくサポートを選ぶと良い。

勿論、読んでみたが価値がなかったと思うとか、あなた自身私より困窮しているというなら、その限りではない(それでもリツイートなどの拡散やいいね程度のことでもして貰えないよりはずっとマシな事はわかって貰いたいが)。え?私がどれだけ困っているかわからないから暮らし向きを教えろ、って?それには及ばないだろう。これからお読みになる様な考えを抱えるに至った者に、世がどの様な人生を与えるか、或いは人々が私をどの様に遇するか、想像すればそれで足りる筈だ。上の件はその小さな一例でもある。それでは今回もお付き合い願おう。



先の論考からすでに二ヶ月以上が経過した。告発者サイドではいくつか動きがあった模様だが、べてぶくろや当事者研究界隈から、不祥事に反応する新たな動きは、少なくとも表立っては依然として無い。


その間にも私は、この問題に興味を持つ人たちの意見を眺めていた。いちいち引用しないが、目立っていたのは「反権威的だった筈の当事者研究もすっかり権威になってしまい、堕落し腐敗した」という様な感じのものだ。あたかも下剋上により独裁者を打倒した民衆リーダーが、勝利を収めた後は自分が敵視していたのとそっくりそのままの独裁者になってしまう様なありふれた現象が、ここでも見られた、というのだ。

実際そういう事が起こったかどうかは置いて、仮に起こらなかったにしても、今回のような不祥事は防げなかったのではないか、と思う。或いは、そうした構図で物事を捉えれば、不祥事自体は防げるかもしれないが、べてるの持ち味もまた見失われてしまうのではないか。ある意味では、糾弾による場の崩壊を懸念した幾人かの論客にうなずくところが私もある。

私は問題を、権威か反権威か、という事ではなく、先の論考でそれぞれティリッヒとバルトに託して語った様に、禍福苦楽か正邪善悪かという、意味の異なる2領域の問題において、正邪善悪の問題が禍福苦楽の問題の陰に埋もれ見失われてしまっていたのではないかという、上下関係よりは水平関係を形成する2領域の領域侵犯に近い事が起こったという風に見ている。どちらの問題領域にも権威主義も反権威主義もあり、片方の領域で反権威を貫けばもう片方の領域での問題の扱いの拙劣さや不足が補えるわけでもない。私がこう考えるのは結局、べてるの家やべてぶくろや当事者研究を、病人の居場所や病人の療養法以前に、キリスト教共同体とその産物として見ているからだ。そして重要なのは、識者の中で私と同じ見方をしている人間はほぼ皆無である事と、人はみな私のように考えるべきだ、という事だ。

医者や治療者や福祉支援者であれば、ある種の邪義、悪事、犯罪が当事者研究共同体で起こるということは、本腰を入れて勤しむべき治療や回復や支援という本業を妨げるが故に速やかに取り除けるべき邪魔な雑念に過ぎなかろう。が、キリスト教共同体として見るなら、それは取り除けられるべきだという点は同じでも、その取除け作業もまた、当事者研究が扱う対象とは問題の所在が別だとしても、当事者研究を開拓していったのと同じ思想あるいは同じ世界観すなわちキリスト教に基づき、本腰を入れて勤しむべき本業のひとつなのである。

医療福祉支援者達の謙抑を装う僭越:専門家の権威への当事者中心主義的代替または補完が医療福祉分野でだけ是認されるべき、さしたる理由はない





性被害に合ったというなら、訴え出るべきはnoteではなく警察だ。そこで事実関係や背後の事情を捜査され、裁判によって罪の重さが吟味され、はじめて刑罰が下されるべきだ。それは法の適性手続き(デュー・プロセス)という刑事法の大原則だ。(※)

(※)小山氏は告発者が弁護士も警察も頼っていないかの様に書いているが、告発者のnoteにあるように実はしている。私はと言えば、アカウントを消した様子なので言及するのに躊躇いを覚えるが、もう一人の告発者も顧みつつ、それだけでは済まない問題が残るだろうと思い第三者ながら再び筆を執らせて貰っている。

司法手続きは、複雑な規則にがんじがらめなので、加害者と国家の代理となる専門家に頼らざるを得ない。これにより、司法の手続は、対象となる個人やコミュニティから切り離されてしまう、被害者と加害者は、事件の傍観者となり、非関与者となる。固有の既得権益を持った巨大官僚機構が生まれ、問題解決を専門家に任せるという社会の図式が助長される事になる。『修復的司法とはなにか?』p84ハワード・ゼア


べてぶくろの不祥事がtwitter論壇に知れ渡った時の、識者たちの反応の一つの典型が、上記の引用群のように概ね「犯罪や加害の問題なら警察や裁判所に行け」というものだった。餅は餅屋だ。それは大いに真っ当で常識的な意見である。どのくらい常識的で真っ当かと言えば、「病気や障害は医者に掛かって診てもらえば良いじゃないか」というのと同じ程度には。

ーーと、こうなぞらえて初めて、あなたは彼らの言う事が少しおかしいのではないか、少なくとも当事者研究周りの問題処理として、辻褄が合わないのではないか、と気づくだろうか?当事者研究とは、まさにその様な常識、「該当領域問題は該当領域分野の、国家資格取得者なり公認の専門家なりに任せておけばよろしい」という専門知や専門家の専横に抗うものであった筈だ。歴史的事実的には主に医療分野での問題処理の仕方として深化して来たかもしれないが、当事者研究の概念或いは理念自体は医療領域の専売特許ではない。医者や福祉事業家にとっては、当事者と聞けば即座に病人や困窮者がイメージされるのかもしれないが、門外漢である私にとっては、「当事者」と聞けば寧ろ「係争当事者」の様な司法(正義)領域の問題を抱えた人たちを真っ先に思い浮かべる。

当事者研究ではなく裁判所や警察、と排他的な二択になるのはカテゴリーミステイクである。当事者や当事者研究の対立概念は専門家や専門知であり、医療領域ではそれは患者と医者を意味するが、司法領域では被害者加害者とあるいは原告被告と法曹という事になるだろう。「加害や犯罪は警察や裁判所へ」という彼らは、なぜ、医療問題では医師専門知の限界を認め当事者研究の前衛性や反権威性に大いに見るべきものを認めていたのに、司法(正義)問題では専門家の権威を追認するのか、その理由を述べなければならない。自分の専門分野では当事者を尊重する事も裁量として可能だが、管轄外の事についてはそうはいかない、という事なのだろうか。

それにしても、当事者研究やらオープンダイアローグやらのある種の前衛的なアマチュアリズムが有意義な程度には、医療福祉領域では専門家による問題対処の仕方にある種の限界が少なくとも現状あるのであれば、医療福祉以外の領域でも専門家の采配が同様の機能不全を起こしている事もありえる、と警戒しても良さそうなものだ。であれば「加害や犯罪は警察や裁判所に」と正解のように指し示すのはーー勿論、本当に一切被害者の味方が居ない状態よりはマシだし、全てが円滑に機能したとしても医療と同様専門家が一切不要になるわけではなかろうがーー無責任だろう。もっとも、彼らがそもそも医療界においても当事者研究に相当批判的であるとか、または法曹界の現状への熟知に基づき太鼓判を押しているというならその限りではないが、十中八九そんなことはなかろう。実際、加害被害の問題を処理するに、今日の司法制度のあり方がかなり不十分(それでも以前よりはマシになった様だが)である事は、以下の記事からも伺える。


法律制度では、加害行為及び罪の問題は、被害者と加害者の実体験とはかなり違った枠組みで扱われる。法律上の訴追が実際の加害行為と殆ど関係を持たない様に見たり、有罪、無罪という言葉が、実際起きたこととあまり関連がないように思えたりもする。近年、一部の法律制度の擁護者が白状しているように「……事実上の罪ではなく法律上の罪が、刑事司法手続きの土台である」『修復的司法とは何か』p73

勿論、識者たちが一枚岩だったわけではなく、私の考えも以下の人たちに近い。



私はずっと「裁判」か「無批判に受け入れる」かの2択がおかしいと思っているので、修復的司法の研究をしている


ごく少数のサンプルに過ぎないが、上記の「犯罪や加害はまず警察・司法へ」論者達が医療福祉業界人であり、「それだけじゃ済まないよ」論者が他分野の文系学者達である事は興味深い。医療福祉業界の関心の対象は、究極的には、健康もその下位概念に含まれる当事者の幸福well-beingである。が、人間を見舞う問題は禍福苦楽だけでなく正邪善悪を分かつ道義的問題にも見舞われるのであり、病者や困窮者として自己の元を訪れた患者やクライアントを単にその限りではなく人間全体として視野に収めるなら、禍福苦楽を扱う「福利厚生」だけではなく正邪善悪を扱う「破邪顕正」も尊重しなければならない。

「そんな事は言われるまでもなくわかっているよ。わかっているから、『警察署や裁判所にいけ』と勧めているんじゃないか」という反論は少なくとも当事者研究を是認する手前、できない筈なのだ。政治家が口にした「自助、共助、公助」という区分が少し前から話題だが、べてるが共助における禍福苦楽を扱う独特な手法として当事者研究を編み出し、その意義が認められるなら、破邪顕正における公助以前の共助的手法も求められて然るべき、或いは破邪顕正問題における法曹という専門家に委ねて済まない問題の存在も、認められて然るべきだろう。

どうも私には、医療福祉関係者たちの、自領域では当事者の独創性を彼らが病人であるのみならずまるでひとかどの「生の芸術家」ででもあるかのように認めて専門家としての分を譲るが、他分野では専門家に丸投げで済ます姿勢は、自己の分際を弁えた同じ謙虚さの表明と言うよりは、同じ人間を見舞う異なる問題の深刻さへの軽視に近く見えてしまう。禍福苦楽こそが人生の、或いは人間としての人間の究極的な関心事であるが故に、生身の人間を象牙の塔で研ぎ澄ました学知のメスで切り刻む様な専横は人間の尊厳への冒涜であり専門家は己の分際を弁えて大いに慎まなければならないが、正邪善悪を分かつ道義的問題にそこまでの重要性はないので、せいぜいテクニカルに処理して済まさればそれで良かろう、という様な。だが、人間を患者以前に人間全体として見る限り、それで済むわけがない。

なぜ、このような状態を許しているのだろうか。被害者であれ加害者であれ、犯罪に関わる者たちの実際的なニーズは、正義(justice)という名の司法手続きの中で、なぜこうもないがいろにされてるのだろうか。改良を目指した変革は、なぜ、いつもうまくいかないのだろうか。その答えは、「犯罪と正義とは何か」という問いに対する私達の理解の中にある。こうした根本的な定義と前提に目を向けなければ、本当の変革はできそうもない。『修復的司法とは何か』71



精神医学の「心的外傷」において,被害者の体験は個人の心的メカニズムの問題として記述されることになる.加害者に害を与えられたことによって生じた被害者の身体反応や感情,意味世界の変容は,個人の「生理学的な覚醒度や感情や認知や記憶」の問題として記述される.それは加害(者)との関係を切り離して,さらにいえば加害(者)を必要とせずに,人災・天災の区別なく被害(災)者の心的な苦しみを把握することができるし,被害者の救済や回復において,加害(者)を必要とせずに被害者の回復を図ることのできる救済の実践として精神医学があることを意味している.しかし,それは修復的司法のように加害−被害という侵害関係から被害者の苦しみを把握することはできない.なぜなら加害者への激しい怒りや,被害を受けたことの悲しみや絶望,喪失の感覚,意味世界の崩壊といった被害者の経験は,個人の身体的・心的反応として記述されてしまうからだ.「被害者」としてではなく,人間の生理的な心的反応として,記述されるにとどまる.



「○○さん(私のこと)は今とても怒っている。コミュニケーションコストが高いからしばらく放っておこう」とメンバーに話していたと後から聞きました。関連団体にも一切報告せず(性犯罪だから人に知られたくないと言う配慮?だったとか)、「怒ってしまう」私に問題があるというストーリーにし、引き続き問題のある発言を繰り返すスタッフRを温存しました。
確かに『べてるの家の「非」援助論』には怒ってばかりの女性が自身で“なぜ怒ってしまうのか”の研究をして仲間から褒められるくだりがありました。しかし私は犯罪被害に遭い、PSWスタッフからセカンドレイプを受けて怒っているのに。正当な怒りを奪おうとする団体の手法には本当に参りました。


ジャスティスやエシックの感覚の毀損は、被害者の幸福well-beingの問題に還元しきれない。人は無人島に独りで暮らしていても幸福になったり不幸になったりするだろうが、義しくなったり邪(よこしま)になったり義に飢え乾いたりは恐らくできない。なぜなら、道義的問題は、自分の外に、自分とは独立したパーソンが存在する場合に彼(ら)との関係上の課題としてはじめて成り立つからだ。加害者の立場に立つ場合だけでなく被害者の立場に立つ場合も同様である。他人のいない世界でも禍福苦楽はあるが正邪善悪を分かつ道義は無い。そう考えれば、「対話」が、過渡的に掛ける必要はあるが目的を果たせば外してしまって良い梯子の様な手段としてでなく、切り離し不可能な構成要素として内属する問題領域は、禍福苦楽よりも正邪善悪である。この私の区別の仕方は、美的知的伝達と倫理宗教的伝達の弁証法(対話術)についてのキルケゴール的把握に近く、古い哲学周辺を彷徨くものにはお馴染みのものだろう。

修復的司法は,なによりも被害者の「被害者」となったことそのことの侵害に照準して苦しみを捉えようとする.これは,上記二つの枠組みとは異なり,被害者の苦しみを,その起点である加害から切り離さずにとらえながら,その回復を論じるものとなっている.それは被害者の苦しみが「被害者であること」,つまり加害−被害という人間関係を前提とした人災固有の苦しみを明らかにし,その人災の苦しみに特化した救済論を検討する試みとしてある.


べてぶくろの件では当事者研究に縁のある医療関係者の中では、かなりマシというか伊藤絵美氏を除けば最も穏当と言って良いので、江戸の敵を長崎で打つ様な真似になってしまうが、私はかねてより、学校でのいじめや家庭生活内での精神的経済的肉体的虐待の被害者でもしばしばある所のひきこもり問題について、この種のカテゴリーミステイクがもたらす弊害への感覚が、斎藤環医師は皆無とは言わないまでもやや浅いのではないか(※)、と感じて来た。

斎藤氏に限らない。なぜ、親子や夫婦の様な家族や性生活や学校での問題への、いやそこで生じる問題を越えて殆ど家族や性生活や学校(或いは教育)自体そのものの実相を穿つ第一人者であるかように、精神科医やカウンセラーがかくも各種媒体で自説を述べたり著作を書き散らかしているのだろうか。「こういうの、そもそも俺の仕事じゃないかもしれないよなぁ…」という様な一片の躊躇いの気配が漂っている事すら、稀有な事の様に感じられる。


(※)ひきこもり当事者アクティビストのぼそっと池井多氏は、ひきこもりの原因は親の虐待にある、とし、公開対論なる親子の対話イベントを主催している。他方、当事者ではなく当事者家族を読者として想定し、当事者の回復の為の親子関係の是正を説く斎藤の著作の中では、親が虐待者である様な可能性はほとんど顧みられていない。斎藤の著作から学ぶ姿勢を持つ、という事は基本的には善良な親を持つ当事者には大いに働きかけができるが、そうでないいわゆる「毒親」の場合には匙を投げるというのでは、当事者の抱える問題の深刻さと反比例した対応ではなかろうか。家族関係に注目する治療的問題解決の試み全般に言えるのだが、良き家族が居れば問題解決に至りやすいが、その家族自体が正に問題の原因であるような悪しき家族ならお手上げ、できるのはせいぜい当事者に逃げる事を勧める位だ、というのは、当事者にとっての介入の必要性より支援者にとっての介入のしやすさが優先されているという事で、楽な仕事ばかり選んでいる様にも見えてしまう。その点、親子と男女、どちらのクライアントに良く頼られてきたかという違いもあるのだろうが、加害者の変容への必要性を斎藤氏よりは柔軟に認めている信田さよ子氏が、べてぶくろの件で沈黙を守っているのは誠に残念である。


たとえば、もし30年、いや20年前に現在のような情勢があり、行政が、
「あなたのひきこもり状態をなんとかするために、あなたの望む支援をおこないますから、何でも言ってください」
などと言ってきていたなら、私は何と答えたであろうか。きっと、家族問題に介入し、ちゃんと母親を謝らせることを、行政による支援として試しに希望したかもしれない。
もしも行政のお墨付きで母親が過去の虐待を認め、私に謝ったとなれば、何の職業訓練など受けなくても、私は世間並みに働く人になっていた可能性が大きい。
「ひきこもりの原因は社会」などと断言している専門家は怪しい存在である。
おそらく自分の支持基盤であるひきこもりの親御さんたちの機嫌をそこねまいと、けんめいにそういう言説をひねりだしているのだろうと思われる。



必ずしも刑事司法による解決が「最善策」だとは言えないだろう。刑事司法はあくまでも「個人」の責任を追及し、処罰を行うことを目的としているからである。他方、この事件の問題は組織内の「人間関係」が鍵を握っている。すなわち、コミュニティの問題なのである。
多くのコミュニティで起きる事件(いじめ、ハラスメント、暴力事件等)は、刑事司法での解決は難しい。たとえば、学校でのいじめを刑事罰の対象にしようとする主張も、インターネットではよく見かける。しかしながら、多くの場合は客観証拠を集めることが難しい。刑事罰の対象にならないことは、その事件が小さいことを意味しない。多くの人びとを傷つける深刻な事件であっても、刑事司法の介入が難しいことはよくあるのである。

学校や家庭や類する共同体のように、正義の番人たる筈の司法の介入が様々な理由により届きづらい領域があり、禍福苦楽に還元できない道義的な悪事がそこにも虐待やイジメの様にあり、言い換えれば加害と被害があり、加害者は特段の不便を覚えない一方で被害者は苦しみ、苦しむという点で医者や心理士の元にたどり着き、損なわれた人生の質を高めるべく彼らの協働的操作の対象として自己を差し出し彼らに対峙するが、加害者はのうのうと生き続ける。そして、「いやいや、私は被害者である私を労るなりエンパワメントするなりして欲しい訳ではなくて、加害者に何とかさせたいのだ。さもなければこの気持は収まらないのだ」と訴えると医師やカウンセラーから「人は他人を変える事はできない。変える事ができるのは自分だけだ」だの「私は法曹ではない。そういう事をしたければ裁判してくれ」だのと返され、振り出しに戻る……。


これでは、誰かが意図的に仕掛けている訳ではないにせよ己の発言の果たす機能を俯瞰できない視野狭窄に陥った愚鈍な連中が織りなす集団的な詐術に引っ掛かった様なものではないか!こんな事態は間違っていよう。もし彼が、一介の職能人にとどまらず社会を啓発する思想家じみた活動にも手を染めているのであれば、この愚鈍はなおさら看過し難く、殆ど犯罪的である。

ギリシャ悲劇最良の傑作ではないものの、精神医療の分野で最も有名なソフォクレスの『オイディプス王』から私達が学ぶべきは、下位男性が上位男性と女の取り合いをするという、日常的に観察可能な有り触れた人間洞察の原型ではなくて、罪を犯していたのは、罪を己と結びつける事のなかった他ならぬ知的な営為者ーー凛々しく雄壮な並み居る英雄たちの冒険と違い、足萎えの身体障害者であるオイディプスの化け物退治は組み討ちではなくスフィンクスの謎解きという知的性質のものであった事を思い出さなければならない。「人間」という答えを導き出せるこの知性は、生存と生殖のための騙し合いに役立つ自然界の生物たちにも見られる様なオデュッセウスの狡猾さとも異なり、かなり実存的で人間的なものであるーーであった、という観察的態度や批判的知性へのメタ批判である。

「ああ、はいはい、お決まりのありふれた『心の専門家批判』ね。聞き飽きたよ」とあなたは言うかもしれないが、私見では、『心の専門家批判』や、それに耳を傾ける謙虚さは有している専門家達は、障害や疾患の医療モデルから社会モデルへ、という様に自助を共助や公助に開いていく柔軟さはそれなりに示しても、本質的には破邪顕正の問題の尻拭いを福利厚生の問題の枠組で担わされる事態への批判意識はそれほど高くない様に思われる。




実際、欧米のMeTooムーブメントがもたらしたのもコミュニティの破壊だった。疑惑だけで告発され、告発だけで社会的生命を失うなら、「そもそも疑惑が生じないように他人(主に異性)と接触することを避けよう」という結論に至るのは極めて自然なことだ。


これら「告発権力」の問題視は一理あるが、コミュニティを機能不全に追い込む原因と言うよりは、むしろその結果という面もあるのではないだろうか。主に共助レベルで適切に処置されるべき破邪顕正問題が、共同体が機能不全を起こしまた既成司法での処理もなかなかうまく運ばないがゆえに、被害者がしびれを切らしてしぶしぶ「公論」に訴える。べてぶくろの件は経緯を追うに、そんな機序に近いように思える。

コミュニティは、ここでも果たすべき役割がある。近代社会の悲劇の一つは、自分たちの問題を専門家に委ねてしまう傾向である。健康や教育や養育などについて、私達はとかくそうなりがちではあるが、犯罪と言われる害悪や紛争も、確かに当てはまりそうである。その結果、自ら問題を解決する活力や能力を失ってしまうのだ。さらに悪い事に、こうした状況から学び成長するための機会を放棄する事になる。修復的対応をする時、コミュニティは司法を探求する中で果たすべき役割があることを、知っておくべきである。『修復的司法とは何か』206

修復的司法(修復的正義)と当事者研究:或いはメノナイトとべてるの家


さて、すでに小松原織香氏(※)のコメントを皮切りに、「修復的司法(修復的正義)」に関する言及を「心の専門家批判」に添えて引用して来た。わたしはこれこそが、丁度禍福苦楽の問題における当事者研究に相当する地位を、正邪善悪の領域において占めるものではないか、と期待を込めて見ている。実は先の論考で引用したN・T・ライトも、修復的司法をクリスチャン・コミュニティに相応しい試みとして注目しているのだ。




和解と修復的正義のために労することは、悪の存在を無視することではない。悪の行為を名指しし、認め、取り扱って初めて、和解はなされ得る。そうでなければ、私たちのしていることは福音のパロディ(模倣)であり、実際はそうでないと知りながら、すべてがうまくいっていると装う恵みの安売りとなる。和解と修復的正義を、ローカルでもグローバルでもいかに実現していくかは、今日の私たちが直面しているもう一つの大きな課題である。クリスチャンの福音は、世界の大半の人が想像もしない仕方で、道徳的な成長ももたらされるよう私たちにチャレンジしている。


国法を破ったことについて国家が違反者を処罰するという、これまで通常採られてきた制度である「刑事司法」に対し、「修復的司法」は、被害者と加害者、犯罪の影響を受けた周囲の人々など、事件の当事者が主体的に集まり話し合うことで、事件によって引き起こされた害悪の解決をともに模索する取り組みです。具体的には、被害者と加害者が第三者の仲介で直接顔を合わせ、事件にまつわる体験や心境を伝え合い、疑問や不安を解消して、罪の償い方などを話し合います。

(※)(とは言え、小松原織香氏には、学術的な研究水準について江口聡氏から疑義が呈されているのでそちらもご参考願いたい。)


当事者研究と修復的司法、両者の重要な相同点は少なくとも3つある。まず、問題の実相を捌ききれているとは言えない既成の権威的専門家体制の不十分さに対する、当事者中心主義的な代替或いは補完的切り口として名乗りをあげている事。次に、反権威的な思想はややもすればリベラリズムや個人主義と手を携えやすいものだが、共同体への内属を基本条件とする人間観を有している事。最後に、この点こそが、あなた達が最も蔑ろにする事が透けて見えもすれば私にとって最も重要な点でもあるのだが、当事者研究も修復的司法も、理論的根拠を聖書に求めるキリスト教思想家を主な担い手として開拓されて来た事だ。

修復の実際体験が始まる所はトップからではなく底辺、つまり家庭やコミュニティあたりからである。神の子のコミュニティがこの方向へと導いてくれると私はなお信じている。聖書に登場する人々おそうであったように、私達は確かに度々失敗する。しかし、その度に神は私達を赦し、修復させてくれるのである。『修復的司法とは何か』p230
使徒パウロの警告によれば、キリスト教徒は不適切な前提の下で行われる国家の裁判所に紛争を持ち込んではいけない。だが彼の指摘は単なる否定ではなく、教会は契約による司法を実行するために、独自の代替的機構を開発すべきであると考えたのである。教会内の害悪や紛争に対処するために用いられるレンズを再検討し、修復的な理解を食い込んだ新たな機構を創造しなければならないことは言うまでもない。こうしてこそ、教会は外部の世界にモデルを提供できる。『修復的司法とはなにか』p226

最後の点は、修復的司法の敷衍という点では足かせになりもするので、理論家達は西洋文明に虐げられたマイノリティ民族の知恵と結びつけようとしたり、キリスト教を越えた宗教多元主義的な発想の同型性を探り当てようとしたり学術的には危うい苦労を重ねている様子であるが、当然懐疑的な意見もあり、私はそちらの方に組する。クリスチャンが、クリスチャン世界の果実を、異教徒が異教徒のままでも味わえるように工夫をこらそうとするのは誠に殊勝な心がけだが、異教的な環境たる日本の住人が、ほいほいとそれに乗じるのは下手をすれば強烈な差別的排除意識の無反省な踏襲になりかねない。なりかねないというか、大体の場合実際そうである。

修復的司法の開拓者として有名なのは、メノナイトのハワード・ゼアだが、キリスト教と修復的正義の結びつきは、少なくとも1950年代のトライザ会議における『聖書における法と正義』に遡れるらしい。

正義と愛を直線上に並べることは、キリスト者が推進しなければならない特殊の課題である。そしてこのことをなすとき、三重の形態における正義の世俗的概念、すなわち、配分的・交換的・応報的正義のかなたに目を向ける必要がある。正義には修復的要素もあるのだ。(中略)修復的正義のみが、現在の法のなし得ないところをなすことができる。すなわち、全人類が苦悩し、最善の人間的正義をも絶えず不正義に変える所の根源的傷、すなわち罪の傷を癒やす事ができる。配分的正義は、埋め合わせという基準を超える事ができない。交換的正義は、処罰と保証による他損害を修復する方法を知らない。聖書に啓示されてある修復的正義のみが、罪に打ち勝つ積極的力を持つことができる。


日欧キリスト教受容史における病と罪の先後関係の入れ替わり:クリストフ・ブルームハルト父子を顧みる


ところで、先の論考で私は、ティリッヒを癒しに満ちた自然神学的神学者として、バルトを罪、裁き、赦し、和解を重視する啓示神学的神学者として紹介した。ふと気づいたのだが、西欧米キリスト教史において、両者の中ではバルトの方が比較的オーソドックスでありティリッヒの方が革新的なのだが、日本ではもしかしたらイメージが逆転しているかもしれない。

日本のキリスト教運動の中で、今日、国内外から広く注目されているのは医療福祉分野のべてるの家くらいではなかろうか。省みても、日本人クリスチャンの思想家や活動家の内、医療福祉分野と司法(正義)分野、どちらの方があなたにとって思い浮かびやすいだろうか?日本初のハンセン病治療院の院長でもあった岩下壮一神父、慈善事業家賀川豊彦、中井久夫の畏友でもあり異端的な信仰を有しながら精神科医として活躍した神谷美恵子、最近では地下鉄サリン事件時の緊急対処で手腕を発揮した聖路加の日野原重明や貧困支援の抱樸の奥田知志、最近知ったのだが精神科医の土居健郎もカトリックの信者であり『甘えの構造』には護教的な意向が透けて見えるらしい。彼らの名前と、田中耕太郎やホセ・ヨンパルト(「個人の尊厳」という日本国憲法上の概念は世界的には実はかなり珍しいものである、という彼の批判に、日本人識者はもっと耳を傾けるべきだと私は思う)や団藤重光の様な法学者達、どちらのほうが、人口に膾炙し尊敬される事が多いだろうか。

勿論、西欧米でも20世紀以降こそ、AAや、弁証法的行動療法のリネハンや、ラルシュ共同体など、医療福祉分野での目を瞠る活躍が見られ、もっと直接的な「神癒」を信じるカリスマ派の運動も盛んになって久しいが、実はこの傾向は比較的新しい。カトリックにも「病者の塗油」というものがあるが、いつしか慣例的に臨終の間際にしか行われなくなっていたこの秘跡が、古代教会以来正式に病人にも執行される様に見直されるのは1972年の第二バチカン公会議とかなり最近のことである。

西欧米キリスト教世界で長く顧みられていなかった「癒やし」を再発見したのは、19世紀中盤頃から第一次大戦期まで活躍したブルームハルト父子であるという。実は彼らこそは、フォイエルバッハやダーフィット・シュトラウスの様な、宗教を人間が生み出したある種の虚構や幻想視する、今日の世俗主義者も基本的に踏襲する開明的な脱神話的宗教観が興隆しキリスト教会も対応を迫られる中で、寧ろ逆に既成教会が古代に置き去りにしてきた霊的地下水脈に辿り着き、続くバルト、ティリッヒ、ブルンナーなどの次世代の神学者達の活躍に先鞭をつけた画期的な運動家でもあった。詳しくは以下のサイトを参照されたい。

彼の父親は自分の小さな教区にいた苦しみ悩む若い女性の世話をしていたのだが、悪魔憑きに対する二年に及ぶ戦いの末に、ようやく悪霊は出て行ったのだった。これから悔い改めと癒しの運動が起こり、父親の教区に及んだだけでなく、近隣の町や村にも及んだのである。これがクリストフ・ブルームハルトが経験したあらゆることの背景だった。

クリストフが十歳の時、家族はバド・ボールに引っ越した。そこは大きなビルが立ち並ぶ所で、温泉を中心とした保養地として発展した町だった。その町は静養のための一種のセンターとなり、何千人もの人々がそこで癒しと安息を得た。この町でクリストフは成年時代をすごし、神の導きに従って自由に働いた。


田舎町の風変わりな教会が全国的な話題を呼び、病人や名望家がこぞって訪れ、癒やしを経験した地元の病者達がピアサポーターとして切り盛りを手伝う光景はべてるの家を彷彿させる。父ブルームハルトは、片や医者からシマを荒らしたかどで疎まれ、片や怪しげな民間信仰的オカルト呪術(※)に手を染めた嫌疑で宗務当局に睨まれ、またこちらはこちらで大いに反権威的な気骨に溢れた敬虔主義ーー悩める良心と悔い改めを強調する、プロテスタントの道義的内面主義的な面を先鋭化させた様な潮流であるーーの影響の強い当地の信仰世界から訝しがられつつも、直向きな信仰に支えられた質朴な人柄にも助けられ、支持者や擁護者を得つつ活躍した。


体や魂において苦しんでいるすべての人に対して、この本の諸々の省察は、苦しみの意味や意義に関する永続的な洞察を与えてくれるだけでなく、静かな力をも与えてくれる。この力は、苦難にもかかわらず、いっそう生き生きと目的をもって生きるよう、私たちを鼓舞する。私たちは理解を得るために苦しまなければならないこともある。神の癒しの御手による接触を経験する必要性についても、同じである。神は思いも寄らぬ方法で癒して下さる。そして、神が癒される時、死は決定的力ではないことを私たちに知らせ、証しすることを神は願っておられる。
この世では痛みは完全な悪と見なされており、薬こそ役に立つ唯一の対抗手段であると喧伝されている。このような世にあって、ブルームハルト親子は私たちに思い起こさせる。真の癒しは、病から解放されるかどうかを遥かに超えたものであることを。極めて物質的な治療法でも祈りによって改善することは可能である、と彼らは信じた。また、私たちが神の御旨に完全に服する時、遥かに偉大なことが起きることを、彼らは理解していた。これは実に良い知らせである。特に、医学の限界と苦しみなき生活の無益さを自ら知る人々にとって。


代替わりししばらくは父の路線を踏襲していた息子は、癒やしばかりを求める人々に徐々にうんざりしはじめ、やがては父を批判する様になり代わりに「神の正義」への強い希求を胸に、ここが実に血は争えないというかこの親にしてこの子ありという所なのだが、社会民主党に入党し、別名「監獄法案」と呼ばれる程労働者の権利を侵害した「労働関係保全法」の成立への反対を表明したという。教会勢力は今日より伝統保守的且つ強力で、概ね無神論的な新興の社会主義共産主義勢力との相互反目は遥かに強かった時代である。父とは別方向に転換したが、スキャンダルぶりは大同小異であり、結局教会当局から除名され牧師の資格も返上し、やがては社民党の方針にも限界を感じ隠遁して余生を送り、第一次世界大戦終結の年に没する。

(※)我々にとっては非常に奇妙に思えることかもしれないが、ブルームハルト自身は、彼が癒やしの力を揮うに際して、既成の医学に抗う積りは更々無く、寧ろ民衆の間に広がっていた迷信的なもの、魔術的なものと対決してしている積りだったという。本論では主に、福利厚生を扱う医療福祉領域への傾倒やその肥大が破邪顕正の問題の掛け替え無き必要性を眩ませてしまう事態を警戒して来たが、医療福祉分野の問題に限っても、キリスト教共同体から発生した当事者研究が、単にそれが非合理であるという理由で、シャーマニズムや精神分析への対抗ではなくシャーマニズムや精神分析と同種のものと見誤られて流通していくのであれば、たちどころにその持ち味を失くして行く事だろう。そして、本邦においては非常に残念なことに、放っておけばあれよあれよという間にそうなる可能性は非常に高い(※※)。筆者が知る少し大きめの某当事者運動も、完全にロマンティシズムに堕落しきっており、それをさも当然の様にみなしており、最も下らない意味で実に日本的であり唾棄すべき怯懦である。『平気でうそをつく人たち』の様な本が、邦訳に際して悪魔的なものの現実的な力を扱った宗教的な部分がごっそり削られてしまうお国柄なだけはある。

彼にとっては、魔術的なものに対する信頼そのものが、正しい福音信仰に対する挑戦であり、世界を脅している悪魔的な力の現れ以外のものではなかった。悪霊的なものを排除する近代的理性は、どの様に非陶酔的に見えても、それはいつも迷信にまつわられ、それから離れることはできない。それに対してブルームハルトは、近代的理性にとっては荒唐無稽とも見える聖書の世界に生きることによって、かえって迷信的なものと戦う事が出来た。『神の国の証人ブルームハルト父子』p123(※※※)


(※※)引用した東畑開人氏は、『居るのはつらいよ』において、「居るとする」、即ち「存在と行為」を対比的に扱ってみせたが、この2つだけでは、我々の存在に先行し、我々を存在へと齎すものとしての生成への感覚が欠けている。その内容は、具体的には誕生とか被造とかであるが、キリスト教の西方古典的原罪論の肝は、我々を存在へと齎す生成は、罪人同士の破れた性交ーー性交自体を罪悪視している訳ではないので注意されたい。元々人間は性交するべく造られたのだから。あくまで、罪人同士の性交が問題なのであるーーを経由するので我々は存在自体が罪人として生成する(生まれる)という点である。片や、神の子は神である父が生むから神であり、破れた性交を通じず処女より生成する(生まれる)から義人な訳である。キリスト教は決して人間の「あるがまま」を肯定する宗教ではない。人間のあるがままは罪人より生まれしがゆえに罪人でしかないからだ。マスキュリストのワレン・ファレルは、「ヒューマン・ビーイングは女性だけで、男性はヒューマン・ドゥーイングだ」と、あるがままでは価値を認められず有為でなければならない男性の待遇の厳しさに皮肉を述べたが、キリスト教の考えはそれとも違う。罪人が何をしようが正しいことは出来ないからだ。私は前論『宗教共同体としてのべてるの家について』で、宗教の重要な点は、将来でも現在でもなく由来の共有なのだ、と言ったが、これは全くリベラルな考えではなく、我々には受け入れがたい事に、貴族の子は貴族であり、賤民の子は賤民だという、出生差別的身分制に近い考えなのだ。ただし、歴史上ただ一人の人だけがバラモンであり、他の全員は不可触賤民だという、例外者を覗いた他の全員の身分的平等を最下層において保証し、また例外者との婚姻を通じて階層移動の出来る、不思議な平等主義的身分制なのだが。そして、私はこれ以外の仕方での平等主義など不可能だと思う。というのはリベラリズムでは結局の所メリトクラシー、しかも聖域化して誰も手出し不可能になった各家族の格差に拍車を掛けられた欺瞞的メリトクラシーにしかならないからだ。



(※※※)何も神学世界に足を突っ込まなくても、一神教的宗教性とデモニッシュ・サタニッシュな呪術・魔術性との相違の察知は、ゲーテ、ベンヤミン、ホーフマンスタール、キルケゴールなど、西洋文学では古典的な感覚と言って良いのだが、本邦では両者ともにある種の不合理性という事で一括にされるか、諸霊との戦いという点がたしかに気づかれれば今度は、『欲望会議』における千葉雅也の様に「異教とシンクレティズムを起こして神秘的感覚に富んだカトリックに対して、合理主義的なプロテスタント」などと言う風に合理主義の側に収められてしまう。キリスト教の勢威の強い米国では流石にスティーブン・ピンカーの様な合理主義の旗手でも、文化左翼的ロマンティシズムと宗教保守の違いーーこの違いは古くは、アイザイア・バーリンによる研究で知られる芸術主義的人道主義者ヘルダーと師であり友でもあった敬神思想家ハーマンの決別に遡れるものであるーーを理解しているのだが…。問題にならないほど小さなクリスチャン世界内部を除き、保革左右、プロ・アマ問わず、ほぼ全てと言っていい程の思想的立場の人たちが、ユダヤ・キリスト教的宗教性世界の特有さを、まるで認識していない。特に、英米的な分析哲学の無味乾燥や些事拘泥に対して、文学・芸術的な感受性に富んでいるとされる大陸哲学的な教養を備えた人たち(中井久夫や木村敏辺りからの流れを汲んでいるのだろう、心の専門家として通俗思想家的な活躍をするのは大抵この種の人たちだが)の野蛮は酷いものだ。マーク・リラにその乱暴さが戒められたように、元より当地ですら「聖パウロの革命性」だの何だの左翼知識人が突如として素人聖書学者として自説を打ったりするだらしないのない慣行が許され勝ちな業界であることに加えて、更にその傾向が、今日の「右でも左でもない普通の日本人」のかたがたの「排他的で禁欲的なキリスト教」嫌いに責が無いとは言えなかろう、柳田国男がハイネの『流刑の神々』の様な虚構作品を学問的文献として採用してしまった、世界的にも異例なほど腑抜けた宗教理解を許容する締まりのない環境に拍車を掛けられて、せいぜい部外者の気の利いた思いつき以上のものではない謬説が言論人や識者の間ですらまことしかに流通している。一例を挙げれば、先の論考でも触れたが精神医療や心理学分野の論者が言及したがる男女観について、左派的なフェミニストも、反動的な保守派も、キリスト教を「男性が支配し女性が隷属する家父長主義」だとほぼ百%の連中が見なしている。信田さよ子の著作の中でも「聖母と娼婦」がどうたらいう愚にもつかない俗説が無批判に踏襲されている。お前たち馬鹿者はーー大事なことなので繰り返す。お前たち馬鹿者はーー、「認知行動療法と唯識仏教」だの、「禅とオープンダイアローグ」だの耳触りの良い話に飛びついている暇があったら、キリスト教を学ぶべきだ。


子ブルームハルトの具体的活動が正解であったとは言うまい。だが、キリスト教は、不幸な人に寄り添い、そしてまた悪とも戦う。ブルームハルト父子の説教を読むと、時期により、片方を強調しもう片方をやや冷淡に扱っているが、これはその都度その都度の具体的状況を踏まえてのバランス取りに近いだろう。父は癒やしを強調し、子は正義を強調する傾向がある。この2つは結局の所キリスト教共同体の欠かせぬ両輪であり、その扱いにおいてキリスト教は世俗社会の代替を示すとともに、片方を蔑ろにしてはならないのだ。

イエス・キリストの福音には二つの面がある。福音は罪の赦しと永続する命の知らせであるだけでなく、人の不幸に立ち向かう知らせでもある。罪の終焉が宣べ伝えられるだけでなく、苦難と死の終焉も宣べ伝えられる。苦難はすべてやむのである!キリストの血を通して罪が征服されたのと同じように、復活の時、苦難も終わりを迎える。イエスがしるしと不思議を行われた時、イエスは苦難に立ち向かう福音を宣べ伝えておられたのである。
イエスは、罪人たちがご自分のもとに来るのを許されたように、病人が来るのを許された。彼には赦す用意があり、癒す用意があった。罪人はほとんど来ないで、病人だけが来る時もあった。そして、イエスは彼らを全員歓迎されたのである。ああ、諸国民がこの良い知らせを聞きますように!病人も来ることができるし、罪人も来ることができる――誰でも歓迎されるのである。


翻って本邦に目を向け直すと、長らく裁きと赦しの脇に捨て置かれていた癒やしをブルームハルトが再発見せねばならなかった西欧米キリスト教世界と違い、どういう訳か戦国時代の流入当初からキリスト教と医療との結びつきは取り分け強かったらしい。先に名前を挙げたクリスチャン達が医療福祉分野に寄るのも、こうした背景を受けているのかもしれない。この様な世界にあっては、べてる的な癒やしにも増して、罪、罰、裁き、悔い改め、赦し、和解(※)の様な、子ブルームハルトやバルト、ハワード・ゼアが強調した、「神の義」に注目していく必要が、より一層あるのではなかろうか。


(※)井上良雄によれば、バルトが影響を受けた多くの先鋭的先人の内、1万ページに及ぶ長大な『教会教義学』の中で最後の『和解論』の巻まで名前が挙げられ続けるのはブルームハルト父子だけであり、バルト最後の講義は、ブルームハルト父子の教会で戦いと勝利の歌として歌い続けられた賛美歌で締めくくられたという。

イエスこそ すべての敵に打ち勝つ勝利の君/やがて世界は御足のもとに伏す/イエスは輝きをもって来たり/闇より光に導きたもう


罪人の義認と罪の義認:ディートリッヒ・ボンヘッファーを顧みる


人は弱く醜い。社会的弱者であるなら、その度合いはさらに増す。そのような弱く醜い人間が織りなす不潔な営為を、そのまま否定せずに、そのまま管理せずに、受け止め続けたのが「べてるの家」だ。


最後に、キリスト教共同体が常識はずれであるとは、どういった点でであるか、考えてみよう。一つは世俗の価値を反転させる所だ。極々自然には、強者は尊く弱者は卑しい、と考えられているところに、いや、弱者が尊く強者が卑しいのだ、と覆す。また、富者ではなく貧者が尊い、自立が卑しく依存が尊い、云々、と。注意しなければならないが、この様な価値の転換は、弱者は可哀想な人たちだから強者は優しくしてあげましょう、という様な、既成の価値を踏襲した上での慈善精神を越えている。


「浦河から東大に堕ちに行く」という向谷地氏の表現の中にも、この種の価値の反転がある。向谷地氏の思想として、書物のタイトルにもなっている「降りていく生き方」が有名であり、上昇志向や向上心が讃えられ勝ちな社会の逆を向く、という点はそれはそれで重要なのだが、どこが上でどこが下かという上下関係をそもそも覆している点も見逃されてはならない。キリスト教の画期性がよく現れているのは寧ろそちら方である。大抵の人は、東大が高い場所で浦河が低い場所で、浦河から東大への移動は、下降か上昇かでいえば上昇として捉えるだろう。


この共同体が、たとえ人の目には人とも言えない虫けらどもの吹き溜まりに見えるとしても、神の目には真実尊いのだ。だが、邪義、悪、罪はそうではない。寧ろそれらは、俗世においてこそ、夢見がちな少年少女から一皮むけて綺麗事ばかり言っている訳にはいかない良い大人になれば、飲み込まざるを得ないある種の必要悪として、建前の裏の本音として、価値判断上は否の判定を下しながら事実上は追認され隠蔽され存続が看過される何かである。俗世が嫌うのは悪の存在というよりは隠蔽を突き破る露見であり、問題は実際に悪事が営まれているか否かではなく、拙劣に営まれている事なのだ。一方、神の眼は、悪の隠蔽露見を問わず、存在自体を憎んでいる様に思われる。そうは言っても、世に生きていく限りは、多少の悪に手を染めなければならない。その通りだろう。だからこその、少なくとも場としてはその必要のないオルタナティヴ共同体なのだ。

バルトやティリッヒと並ぶ神学者であるディートリッヒ・ボンヘッファーはかつて、プロテスタントのモットーたる「罪人の義認」が「罪の義認」と取り違えられてしまった事態を嘆いた。多少の誤魔化しが大人の処世術として許容されるどころか必要とすらされる世俗社会と異なり、キリスト教共同体では、悪は大目に見られなどされず徹底的に裁かれ拒絶されるべきなのだ。

その事は、罪の存在よりも露見を憎み、露見した人間の尊厳を蹂躙し、居場所を徹底的に奪い孤立させる狭量な世俗社会と全く逆に、悔い改めた罪人に赦しが与えられ、その尊厳が守られ、コミュニティの一員として迎えられる事と矛盾しない。

[溢れ出ること]が、まさに司法の姿である。私達が話題にしているのは、司法に対する最高レベルの法律尊重主義的アプローチではない。司法の物差しのことではなく、新しい姿を起こさせるような真の司法が生ずる状況について語っているのだ。その姿とは、人々を低いレベルのままでなく、またはただ平等にするだけでなく、満たし溢れてるようにすれば、外へ出ていって周囲の人々に司法を広めることが出来る、というものである。司法にとって現在の法律尊重主義的アプローチが抱える問題は、おそらく人々に溢れ出させていないので、司法が十分他人に施し与えられているということである。『修復的司法とはなにか』p193

解しがたい事かもしれない。結局は全ての事が、創造されたこの世界の存在において、また処女懐胎から再臨の約束を伴う昇天にまで至るイエス・キリストの生涯において、そしてそれらを記す聖霊により書かれた聖書において我々人間たちに啓示された、他ならぬ三位一体の神の愛に基づくのだ、という出発点を受け入れなければ一切が把握し難い侭なのだろう。


おまけ:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』



熊代 おっしゃる通り、個人主義や社会契約に基づく関係をどんどん受け入れて、私たちは便利で快適な社会を築いてきたのですが、その反面、古い共同体の利点や長所はほとんど顧みず、資本主義とか社会契約の論理に置き換えてきたわけですね。こう言うと復古的だとか、保守反動的だと言う人もいるかもしれませんが、やはりその過程で失われてしまったものはある。現在の世の中に行き詰まりを感じている人が多い以上、その失われた価値を取り戻す努力をする必要はあるはずです。


『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』という著作のタイトルは、それをひっくり返した様な小山氏の「不潔な共同体」という概念にも示唆を与えたのではないかと思われるが、寧ろ著者の熊代亨氏こそ、引用のような問題意識を持つのなら、知人でもある筈の一介の自称狂人がまるで彼の意を汲む鉄砲玉の様にべてるの家派生団体の不祥事という具体的案件に挑んでいった姿に高みの見物を決め込みながら、自分の方は当たり障りのない抽象的な一般論で人畜無害に社会を斬って済ますような事をせず、正に彼の言う共同体のモデルケースである様なべてるの家まわりの不祥事に、自ら泥をかぶって言及してはどうだろうか?まさか精神科医にしてツィッタラーである彼の耳に、事件のあらましが届いていないわけがなかろう。

因みに同書の様な小綺麗な市民社会批判は、それに辟易したボンヘッファーを引用した様に、反動的知識人おなじみのものであり、ゆえに、同書の意義は著者が読者に提供しようとしているのとは異なる点に見いだされるのだろうと思われる。

(終)

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